凪の海

 もう会うまい。仮に会っても何度も同じ気持ちを味わうだけだ。こんな気持ちをずっと繰り返していたら、気が変になってしまう。出会った時から汀怜奈は自分にとって、家族以上に一緒にいたいと思える人であることは変わらない。しかし今となっては、出会ってしまったことが幸福だったのか、不幸だったのかよくわからなってきた。
 汀怜奈への思いを吹っ切るように、彼は腰を上げると、その丸太にミノを打ち込んだ。
「佑樹さん」
 背後から彼を呼ぶ声は汀怜奈のものであることはすぐにわかった。アルバイシンの丘を登ってやってきたのか多少息が上がっている。佑樹はなぜか怖くて振り返ることができなかった。
「佑樹さん。呼ばれても無視するのは礼儀に反しませんか。」
 佑樹は心を読まれまいと、無表情の仮面をつけて振り返った。見ると大きなバッグを持った汀怜奈が、肩で息をしながら仁王立ちしている。
「昨夜は人にコンサートさせながら、挨拶もなく帰ってしまうなんて、冷たいとおもわれませんか。」
 佑樹は黙って返事も返さなかった。
「私は…空港も稼働を始めたので、今日中にマドリードへ戻って、帰国しなければなりません。」
 汀怜奈はそう言って佑樹の顔を覗き込んだ。佑樹もバツが悪くなって口を開くが、皮肉しか出てこない。
「そうですか。世界の村瀬汀怜奈ですから…当然ですね。」
 喋れば喋るほど自分が嫌になってくる。しかし、そんな自己嫌悪に陥る佑樹にお構いなく、汀怜奈は平然と言葉を続ける。
「だから、私には時間がなくて…でも、佑樹さんとやりたいことがあるから、協力して欲しいのです。」
「なんですか、なんで村瀬さんに協力しなければならないのです。」
「だって…私のこと好きなんでしょ。」
 汀怜奈のあまりにも突然な発言に佑樹も咳き込む。
「ち、ちょっと待ってください。なんで僕が村瀬さんのことが好きなんですか。」
 声を荒立てる佑樹にも、汀怜奈は平然としている。
「家族以上に一緒にいたいとおっしゃってたわ。」
 汀怜奈の言葉に、彼はさらに気色ばんで声を上げた。
「何度も言わせないでくださいよ。自分が好きだったのは先輩であって、村瀬汀怜奈ではないんですから。」
 それでも汀怜奈は平然として、佑樹に近づいていく。そして、しなやかな美しい指で、無精ひげの生えた佑樹の顎をとらえた。