凪の海

 曲が始まるとすすり泣く音が会場から聞こえてくる。弾いている汀怜奈はとっくにゾーンに入っているから、そんな音が聞こえるわけがない。しかしやがて汀怜奈の耳には、演奏を聴いている人たちの、心の叫びが聞こえてきていた。不安、悲しみ、挫折、中には耳を覆いたくなるような声もあった。心を揺さぶられているのは汀怜奈の方だ。しかし、それでも涙をこらえて弾き続けられたのは、その声の中に、小さな声であったが、汀怜奈への愛の声を聞いたからだ。
『がんばって、大好きな先輩。自分はここに居るから。』
 その声に支えられて、汀怜奈は弾ききった。

 汀怜奈には永遠のように思えた5分42秒の名曲を弾き終えたあと、会場は静寂に包まれた。そして突然、雷のような激しい拍手が湧き上がった。外来ロビーに力なく座り込んでいた人々が、薄い毛布に横たわっていた人々が、立ち上がって拍手をしている。始まる前とはちがって、その聴衆の瞳にはわずかながらも力の灯火が宿っていた。そして、そのくちもとには、微笑みともとれるような優しい表情が浮かんでいた。
『話し尽くせば、多少は心に隙間が出来て、明日のことが考えられるようになるかもしれない』
 汀怜奈は佑樹の言葉を思い出して、聴衆のなかにその姿を探した。しかし、彼を見つけることはできなかった。
 拍手はいつまでもなり止むことがなかった。

 翌朝、佑樹は工房の木材を切り出す作業のために裏庭に出ていた。しかし、作業の手をほとんど動かすことなく丸太に腰をかけてぼうっとしている。
 夕べの汀怜奈の演奏は素晴らしかった。音が奏でられた瞬間からもう佑樹は涙が出て止まらなかった。感動というのは、まさにこういうことなのだろうとあらためて実感する。人の心に染み入る演奏をする汀怜奈はやはり天才である。そして、天才は世界のいや人類の宝だ。決して個人が独占するべきものでもないし、手にいれられるものでもない。
 演奏が終わって、すべての聴衆から感動の拍手を受ける汀怜奈を見たとき、告別式でスカートを履いた汀怜奈を見た時と同じ気持ちが湧いてきたのだ。再び、汀怜奈と自分との間には何万光年もの距離があることを実感した彼は、逃げるようにして会場をあとにした。