凪の海

 汀怜奈は一度ホテルに戻った。こんなことになるとは思っていなかったので、ドレスなどあるわけがない。もちろん演奏用のギターもあるわけがない。楽器は、佑樹が工房から1台借りてきてくれるとは言っていたので、とりあえず、質素ではあるが清純なワンピースを選んで着替えるとまた病院に戻った。外来ロビーでのコンサートだから、音響設備もなければ照明設備もない。音の弱いギターの音を増幅するため、反射音が期待できるポジションにステージを設置し、照明としてはロウソクが持ち寄られた。冷たい病院の蛍光灯ではなくてロウソクの灯でコンサートをおこなおうというのだ。さすがヨーロッパ的といえばそうなのかもしれない。病院からのお知らせを聞いて、病院中の患者や家族が集まってきた。外来ロビーは人でいっぱいになった。
 汀怜奈は、会場から離れてひとり、楽屋としてあたがわれた診療室にいた。会場の準備が着々と進む状況が報告されるたびに、彼女のストレスも高まっていく。
『佑樹さんはどこへ行ったの。魔法をかけてくれるって言ったのに…。』
 結局佑樹が楽屋に飛び込んできたのは、コンサート開始一〇分前。
「佑樹さん。あと1分でもおくれていたら、確実にバンナのハイキックがとんでますわ。」
「すみません。ギターの仕上げに手間取って…でも大丈夫間に合いました。ほら。」
 佑樹が差し出したギターは、工房に預けていた橋本ギターだった。
「これが魔法ですか?」
「いえ、これは魔法を掛けるのに必要な小道具です。いいですか…。」
 佑樹は、汀怜奈の正面に座り、その両手を取った。
「目をつぶってください。」
「目をつぶるんですか?」
「魔法って、そういうふうにかけるもんでしょ。」
「そうでしょうか…」
 佑樹に両手を握られて、少し早くなった鼓動を悟られまいと、汀怜奈は大きくため息をついて目を閉じた。目を閉じたのを確認すると佑樹は魔法をかけ始める。
「まずはじめに、自分にギターを教えていただいた頃を思い出してください。」
 汀怜奈は、狭い佑樹の部屋で、佑樹と佑樹のお父さんとギターをはさんで、楽しくおしゃべりしている光景を思い出した。
「あの時先輩は言いましたよね。音の弱いギターは音楽を聴かせるというよりは、語るって感じだと。だから、彼女をモノにしょうとするのに、ギターを選んだのは、案外正しい選択だったのかもしれないって。」