凪の海

 そんな先輩はもう何処にも居ない。その替り目の前に現れたのは、世界的にも注目されている天才ギタリスタなのだ。ああ、自分でも身勝手な怒りだとわかってはいる。でも、やっぱり、到底受け入れることができない。


 おじいちゃんの骨が灰になった日から、5年の月日が経った。
 汀怜奈は、答えが得られぬ『ヴォイス』の幻影に悩まされながらも、その天賦の才を開花させて、世界的な音楽活動を積み重ね、その評価も不動のものとなっていた。
 今日もスペイン・マドリードでの演奏会を終え、帰国の準備を母親としているところである。
「ギターは全部日本に送っていいのかしら?」
「ええ、もう演奏の予定はないし、練習用を一本残しておいてくれればあとは送っていただいて結構です。」
「ええっと、練習用はこれでしょ…あとは送りと…あれっ、これは?」
 母親が手にしたのは、古びたいかにも安価そうなギターだった。そう、5年前、佑樹が送ってきた橋本ギターである。
「あっ、それはブリッジが少し浮いてきちゃって…。こちらの知り合いの工房で直してもらおうと思ってるの、残しておいて。」
「これ、確か石津さんのところからいただいたギターよね。」
「ええ、まあ…。」
「使いもしないのに持ってきてたの。」
「だから、直してもらおうと思って…。」
「日本でも直せるにわざわざスペインまで?」
「これを上手く直せる工房は、スペインにしかございませんのよ。」
 汀怜奈が、母親にそっぽをむいて答えた。目の中にある心の乱れを気づかれたくないのだ。
「へえ、そうなんだ。」
 母親が橋本ギターをケースにしまいながらひとりごちる。
「そういえば、石津さんの息子さん。たしか大学行くのをやめて、スペインへギター作りの修行に行ったって言ってたわよね。」
 汀怜奈が母親の言葉に驚きながらも、動揺を隠すためにゆっくりと振って言った。
「お母さま、なぜそんなことをご存知なんですか。」
「ご存知だなんて…だって、石津さんに聞いたもの。」
「いつ?」
「…いつだか忘れたわ。」
「忘れたって…いつ佑樹さんのお父さんとお会いしたの?」
「その話が出たのは、だいぶ前にお会いした時だったから…」
「その後、佑樹さんのお父さんとは?」
「…ええ…まあ…何度か…、先月にもお会いして…。」
「やだ、佑樹さんのお父さんとお付き合いをされているのですか?」