凪の海

「なんでもええから、何とかしてください。助けてください。」
 泰滋の絶叫のお願いも、医師は力なく目を伏せる。
「もちろん最善を尽くしていますが、この診療所の設備では限界が…。」
「限界ってなんや…人の命がかかってるんやで。」
 医師の白衣の襟を掴んで怒り狂う泰滋。
「今、救急車を呼んでいます。ここから大学病院へ搬送して、そこで処置をしないと。」
 泰滋は、その言葉を聞いてミチエに向き直った。
「ママ。聞こえるか。今、大きな病院へ連れて行くさかいにな。しっかりしいや。」
「パパ…。」
 ミチエが力ない声で泰滋に話しかける。
「なんや…無理して口きいてはあかん。無理したら血がようけ出てしまうがな。」
「パパ…もし私がダメだったら…。」
「そんなこと、ならへんて…。なったらあかんがな。」
「…子どもたちをお願いね。子どもたちは、私とパパが一緒に生きた大切な証だから…。」
「なにゆうてんねん…。」
「それから…床の間の化粧箱の奥に御札があります。…よく見てくださいね。それが、わたしの願いだから…。」
「あかんがな、目をつぶったらあかんがな。ママ、ママ、うちを残していったらあかん。」
 静かに目を閉じたミチエは、それ以上泰滋の呼びかけに答えることがなかった。いつミチエの命が事切れたのかわからない。ただ大学病院へ搬送されたものの、大学病院の医師は聴診器を外してただ首を横に振るだけであった。あっけない。本当にあっけない別れ。どんなに愛する人であっても、人の別れとはこんなにあっけないものなのだろうか。泰滋の頭の機能が停止した。ようやく頭が動き出し、『この現実をどう受け止めていいのかわからない』と頭に浮かべられるようになることすら、ミチエの死後かなりの時間が経ってからだった。

「今更、カミングアウトかよ…。」
 佑樹の父がポツリと言葉を漏らした。
「ああ、お前が気にするかと思ってな…。お前は案外気が小さい息子だから…。」
「そんなこと…。」
「いいか、ママはお前の命と引換えに、自分の命を絶ったわけじゃない。事故だったんだ。そして、たとえどんな事故が起きようと、お前が生まれることは、ママにとっても、わしにとっても幸せなことなんだ。」
 佑樹の父親を見るとその瞳には涙を浮かべているようだった。そんな親子を見つめていると、汀怜奈の瞳も思わず潤んできた。