凪の海

「そうなの…でも、いつ、どうして亡くなっちゃったの?」
「だから、まったく記憶にないんだって…。じいちゃんだって教えてくれないし…。」
 じいちゃんは、またゆっくり話し始めた。

 ミチエの陣痛が始まると、さすがの泰滋も工房もギターも放り出して、ヤスエを背負いながらミチエを診療所に連れて行った。
 当時は、分娩に夫が立ち会うなどという習慣はなかったので、泰滋は分娩室の外にある待合でじっと待つしかなかった。初産であるヤスエの時は、仕事で出産時には立ち会えず、仕事から帰ってきたらミチエの腕の中にヤスエがいた。だから彼にとっては、出産を待つという経験は初めてのことだ。陣痛の痛みに耐えているのだろうか、時折分娩室からミチエのうめき声や叫び声が聞こえてくる。子どもを産むというのはこんなに大変なことだったのか…。泰滋は今更ながら、母親としてのミチエの苦労に心を痛めた。
 分娩室に入って約五時間。ヤスエを背負った泰滋は待合室でウロウロしながら出産を待っていた。そして、ミチエのうなりとも叫びともつかぬ声とともに、ようやく産声を聞くことができたのだ。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」
 分娩室からタオルに包まれた赤子を抱いて笑顔の看護師が出てきた。泰滋は、笑顔なのか泣き顔なのか、顔をクシャクシャにして息子と初対面を遂げたのである。
 急に分娩室が騒がしくなった。すると、別の看護師が分娩室から飛び出してきた。
「石津さん。この白衣を羽織って、すぐに分娩室にお入りください。」
 飛び出してきた看護師の青ざめた顔を見て、泰滋もただならぬ事態を察した。ヤスエを看護師に預け分娩室に飛び込んでいった。彼の妻は下半身を血に染めて横たわっていた。
「お子さんは無事に産まれましたが、我が子を抱いた後に急変しました。」
 医師の説明も耳に入らず、泰滋はミチエの手を握った。しかし、青白い顔で朦朧としているミチエの顔を見ると言葉が出てこない。
 分娩後早期におこる弛緩出血。胎盤の剥離(はくり)面から出血した血が子宮内にたまり、子宮収縮と同時に起こる間欠的な大量出血。子宮はすぐに収縮不全の状態になるため新たな出血が再び子宮内にたまり、この出血が繰り返されると凝固因子の消費による播種性血管内凝固症候群(DIC)を引き起こし、止血ができなくなる。分娩後二四時間以内におこる恐ろしい傷病だ。