凪の海

「どうだろうね。弾きやすいとは思うけど、いい音が出るかどうかは自信ない。」
 泰滋もミチエもしばらく無言で組み立て中のギターを眺めていた。
「だけど師匠が言うには『凪の海』のようなギターがいいギターなんだそうだ。」
「どういうこと?」
「凪の海は、穏やかで、静かだろう。」
「ならば、音が出ないギターってことかしら…。」
「そんな馬鹿な…。」
「ギターの話も大概にせんか、奥さんもお腹のなかの赤ん坊も腹が減ってたまらんとよ。」
 ふたりとも、声の主に目を向ける。見ると、木土門をくぐって頑固そうな顔の老人が入ってきた。
「師匠…わかりましたよ。もう帰りますから。」
 泰滋が頭を掻きながら、ギターを仕舞いに行く。彼が工房に入るのを見届けると橋本師匠がミチエに話しかけた。
「この土地で産むのかな。」
「はい、泰滋さんもギターが完成するまではここから離れたくないみたいで…。」
「この土地には、ロクな病院もないし…安心して産めんじゃろうに。」
「いえ、私は大丈夫です。」
「それならいっそ、シゲを工房に出入り禁止にして、奥さんにずっと付きそえるようにしようか。」
 ミチエが笑い出した。
「そんなことしたらまた病気になってしまいます。泰滋さんが元気になったのも、明るく楽しく過ごせるのも、師匠とこの工房のお陰です。感謝しています。」
「わしらは、ただシゲを手伝わせているだけで、何もしておらんがのう。」
 工房から出てきた泰滋をギョロリと睨むと、師匠は後ろ手に歩きながら工房へ入っていった。

 汀怜奈は、生唾をごくんと音を立てながら飲み込んだ。『凪の海のようなギター』意味はさっぱりわからないが、どうも自分が求めているものにたどり着く重要なヒントであることはなんとなくわかった。その言葉が、魔法使いの呪文のように汀怜奈の頭の中を駆け巡る。
「ねえ、じいちゃん。その時ばあちゃんのお腹の中にいるのは、おやじだよね。」
「ああそうだ。」
「親父はおばあちゃんのこと覚えている?」
 おばあちゃんというのは佑樹の父の母親である。会うこともなかった母親の話しに、佑樹の父親は佑樹とはまた違った感慨にふけっていたようだ。神妙におじいちゃんの話を聞いていた佑樹の父は、佑樹の問いに我に返ると、大きなため息をついて返事を返す。
「写真では見たことあるけど…まったく記憶にございません。」