凪の海

「何言ってるんだよ、ママ。俺もヤスエも大満足だよ。なあ、ヤスエ。」
 泰滋が箸で惣菜をつまみ、ヤスエの口に運ぶと、ヤスエは満面の笑顔で美味しそうに口を動かした。養生する泰滋を気遣って、今はミチエが働いて家計を支えている。その苦労が痛いほどわかるがゆえに、泰滋も文句など言う気にもなれない。
「ねえ、何か趣味でも始めたら?」
「趣味ねぇ…。」
 いくらミチエに言われても、家長としての責任を果たせていない今、それを忘れて趣味にふけるなど泰滋の性格では無理な話だ。うつむき加減で黙々とヤスエの口に食事を運ぶ泰滋を見て、ミチエの口数もだんだん少なくなってきた。
 ヤスエを寝かしつけて泰滋が居間に戻ると、ミチエが財布を取り出してにっこりしながらそれを彼に差し出した。
「たまには外に飲みに行ってくれない?」
「えっ…。」
「これから部屋の大掃除するの。パパ邪魔だから。」
「えっ、これから?」
「だから、家に居られると邪魔なの、さっさと行った、行った。」
 逡巡する泰滋に外着のジャンパーを投げつけたミチエは、ホウキで履くように泰滋を外へ追いやった。

 近くの赤提灯。俺はそんな暗い顔をしていたのだろうか。狭いカウンターで日本酒を一杯一杯大切に口に運びながら自問自答する泰滋。彼にはわかっていたのだ。ミチエがそんな自分を心配して気分転換に外へ出してくれたことを。ミチエの心遣いは、心底ありがたいと思っている。だが、こんなことをされ続けたら、家長としての自信を失ってしまうような気がしてならなかった。
『こんな俺でも、今できることはないのだろうか?』
 養生が終わればまた京都に戻るのだ。元気な体を取り戻すまでの辛抱だとは思っても、今の焦燥感がとてつもなく大きな力で泰滋を締め付ける。しかし、この土地で仕事に就こうにも、結核上がりのよそ者、しかもやがて街を出てしまう泰滋に仕事を与えてくれるところなどなかった。
「おい、お前。」
 泰滋は、となりで飲む初老の酔っ払いにいきなり声をかけられた。
「はい?」
「お前、さっきから病み上がりみたいな青白い顔で、ため息ばかりつきよって…酒がまずくなるから何とかしろ。」
 知らずとため息をついていたのか。しかし、こんな気分の時に酔っぱらいに絡まれるとは…。なんとついていない日だ。
「はいはい、申し訳ありませんでした。もう退散しますから。」