凪の海

 しかし、映画でもあるまいし、偶然などそんな度々作れるわけがない。1時間ほどフロント周りのロビーをウロウロして、ベルボーイやホテルスタッフを目で追ったが、そこに佑樹を見出すことはできなかった。彼はルームサービス専門で、表に出ることはないのだろうか。
 流石に歩き疲れた汀怜奈は、ロビーが見えるオープンラウンジへ腰かけて、コーヒーをオーダーした。運ばれてきたコーヒーカップを手に持つと、佑樹とギターレッスンをしていると幾度となく缶コーヒーと山盛りのカントリーマムを持って、部屋にやってくる佑樹の父のことを思い出した。そんな時は、佑樹は嫌な顔をするものの、決して父を追い出すことはしなかった。
 おじいちゃんに対してもそうだが、この佑樹の家族に対しての優しさはどこで培われたのだろうか。天性のものなのだろうか。汀怜奈も、時に鼻持ちならぬ高慢な言動を彼に投げつけることもあるが、彼は柔らかく受け入れてくれる。そんな佑樹の優しさを汀怜奈は折に触れて実感していた。だからこそ、先日の彼の別れ方は、彼らしくない。
 しかし…しかしだ。汀怜奈はコーヒーカップを乱暴にテーブルに置いた。だからといってなんなのだ。自分の人生を賭けた『音楽芸術』の探求に何の関係があるのか。あの偉大なロドリーゴ氏が私に託した崇高な課題に比べれば、彼や彼の家族がどうであろうが、そんなものに関わる意味なんてなにもない。
『もっと音楽に集中しなければいけない。』
 ひとりでラウンジに座る『時』が積み重なるほどに、佑樹と会う偶然が実現しなかった悔しさと、こんな行動に時間を費やしている自分への自己嫌悪が肥大していき、それがまた自分自身への叱咤を強める結果となった。
 汀怜奈は、席を立ちかけた。
「あれ、先輩じゃないですか。」
 立ちかけた汀怜奈を押しとどめるように、スーツの男が声をかけてきた。汀怜奈は声の主を見たが、相手は見覚えがない男性である。男は汀怜奈から訝しげに見つめられて、バツが悪くなったのか、頭を掻きながら言葉をつなぐ。
「やだな、佑樹の父ですよ。」
「まぁ、おとうさま…。」
 トランクス一丁の姿しか見慣れていない汀怜奈だ、スーツ姿の彼が見分けられなかったのも無理はない。しかし、小説家の前は、大きな会社に勤めていたと佑樹に聞いたが、さすがスーツ姿は板についていた。
「すみません。見違えました…。」