凪の海

 驚き顔の案内係に導かれて2階の父兄席に着席すると、ミチエは1階席の卒業生を見下ろして夫の姿を探した。そしてようやく探し当てた泰滋へにこやかに手を上げると、彼も卒業生の席から同じように手を上げて応えた。
「なんや、シゲの彼女か?アツアツやな…。」
 隣に座る学友が、泰滋に尋ねた。
「いいや、嫁はんや。」
 平然と答える泰滋。
「えっ?…いつ、結婚したんや。」
「去年の秋。」
「嘘やろ…。」
 周りの学友たちも、ふたりの話しに聞き耳を立て始めた。
「ご両親が来る代わりに嫁はんか?」
「ああ、おとうはんと喧嘩しててな、今は顔もみんし、口も聞かへん。」
「なんでや?」
「おとうはんに就職先を紹介されたんやが…。」
「どこや?」
「京都銀行やなんやけど…。」
「ええとこやないか。」
「けど、就職試験の面接で、労働者の権利と自由について、弁を張ってもうた。」
 泰滋の顔を呆れたように眺める学友。
「いくらなんでも、それはないやろ。…結果は?」
「ああ、当然落ちたわ。」
「そうやろなぁ…なんで、そないなことしたんや。」
「自分でもよくわからん。気いついたら、喋りまくってた。」
「で、これからどないするんや。」
「おとうはんにグズグズ言われる前に、自分で大阪のカメラの商社に就職を決めてきた。」
「そうか…けど、そんなに急がんと、親御さんの力借りれば、もっとええ就職先を探せたんとちゃうか。」
「ぶらぶらしてるわけには、いかへんのや。妻もおるしな。それに…。」
「それに…なんや?」
「8月には、子供も産まれるよってに…。」
「なんや、嫁はんはもう身重なのかいな。」
 泰滋の話しに聞き耳を立てていた周りの学友たちが、泰滋とミチエを交互に見ながらざわめきたった。どうやら泰滋は同志社の長い歴史の中で、今出川キャンパス栄光館での自らの卒業式に身重の若妻を出席させた初めての学生として、その名を刻むことになったようだ。

 佑樹は走った。走って、走って、走って…。彼は心に厄介な感情が生じた時は、いつもそうしている。体育会系の彼らしい対処方法だった。走っているうちに、筋肉がより多くの酸素を必要とし、結果脳へ運ばれる酸素の量が減る。すると脳の活性が阻まれ余計な考えが頭から蒸発していく。体育会系とは言え、医学的な理屈にあった対処方法である。