凪の海

「しゅー…しゅー…。」
「だから、口笛は吹けんでもええと言うとるやないですか。」
「だって…。」
 泰滋の苦闘も知らず、みちえは艶やかに潤う唇を突き出して、無邪気に口笛の練習を続けていた。

 千葉の実家からは、いっこうに帰ってこないミチエを心配し何度も連絡がきた。とっくに泰滋さんは元気になったのだろうと言う母の言葉にミチエは、もう少し、もう少しを繰り返して、帰るとは言わない。もちろん石津家の誰も、ミチエに帰れとは言わなかった。泰滋は当然のこと、彼の両親もミチエを無理に帰らせて、一人息子がまた具合悪くなるのではないかと恐れたのだ。
 劇的なドラマも感動的な出来事もなく、ただ平凡な毎日の積み重ねの中で、さらに3ヶ月が過ぎ、いつの間にか京都盆地にうだつような熱い夏の日が訪れていた。ミチエは、ここに居候しながら、いったい何をしようとしていたのだろうか。
「おねえちゃん。」
「なあに?」
「おねえちゃんは、なんでシゲにいさんの家にいるんや?」
 ミチエのそばに腰掛けた女の子が、クレヨンを忙しく動かしながら尋ねた。
 泰滋の父は町内会の世話役で、朝のラジオ体操や町内の餅つきなど、町内の催し物に積極的に貢献していた。しかし、夏休みの行事となると、サラリーマンの父は仕事の関係で世話ができない。そんな時は父に代わって、暇な大学生である息子が世話役を代行する。今日は夏休みの熱い日だというのにも関わらず、こども会写生大会の引率で京都府立植物園に来ていた。すまなそうにする泰滋に、子供好きのミチエは喜んで同行していた。
「なんでって…」
 京都盆地の熱い日差しが、力強い蝉の声とともにミチエの麦わら帽に降り注ぐ。ミチエは、お義母さんから借りた扇子を細かく動かして、胸元に風を送った。そうしながら、自分でもなぜここに居続けるのだろうと答えを探していた。
「奥さんやないんやろ?奥さんでもないのに、一緒の家にいるのはへんやないか?」
「そう?変かしら…一応婚約者なんですけど…。」
「婚約者ってなに?」
「あほやな…。」
 おませな女の子がもうひとり話に割り込んできた。
「婚約者いうんは、結婚を約束した人のことや。」
「ほなら、なんではよう結婚せいへんの?」
「それはな…大人の事情ってやつやないの?」
「そんなことはないんだけど…。」
 ミチエも返す言葉が見つからない。