ウ・テ・ル・ス

 代議士夫人を見たとたん、真奈美は自分達の赤ちゃんを彼女が奪いに来たのだと実感した。会うのは2度目だとは言え、こうして対峙してみると、夫人の持つ威圧感に真奈美の足がすくむ。夫人は真奈美を一瞥すると、汚いものを見たようにハンカチで口元を覆った。
「それで、出産予定日はいつなの?」
 赤ちゃんを奪われる恐怖心からか、真奈美は夫人と目も合わそうとしない。秀麗が答えた。
「出産予定は40週目です。今34週目ですから、あと6週はありますが、正期産(満期産)には37週から突入しますので、1カ月後からは実際はいつ生まれてもおかしくない臨戦態勢ということになります。」
 夫人は真奈美の突き出たお腹をマジマジと見つめた。秀麗は言葉を続けた。
「しかし、彼女は初産なので…初産は遅れる場合が多いんですよ。」
「私はこんなところに1カ月以上も滞在できるほど暇じゃないの。さっさと済ませて欲しいものだわ。」
 そう言い残して夫人は一軒家を出ていった。秀麗と真奈美が夫人を見送ると、夫人が家の周りにたむろする人相の悪い男達から礼を受けているのを目撃した。その姿を見ながら、真奈美は赤ちゃんをお腹に抱いたまま、ここまで来てしまったことを初めて後悔した。

 妊娠10カ月(36〜39週)お腹の赤ちゃんの大きさは約50センチ。真奈美もいよいよ正期産に直前となり、不安もピークに達して来た。もうなり振り構っていられなくなった。とにかく赤ちゃんを守ることが最優先だ。生まれてからではもう遅い。ついに彼女はこの家からの逃亡を決意した。
 その日は朝から体調もよかったので、秀麗に気付かれぬように身の回りの物を整理し、最低限の衣類とマタニティ用品をバッグに詰めて、夜が更けるのを待った。
 深夜、虫の音しか聞こえないことを確認して、真奈美は寝室を出た。幸いこの家には秀麗しかいない。秀麗は、棟の離れた自分の寝室で寝ているはずだ。寝室を出て真奈美はアンクレットを外すのを忘れている事に気付いた。歩くたびに鳴る鈴の音に肝を冷やしたが、今はそれを外すことよりも、少しでも早くこの家を出た方がいいと考え、出口に急いだ。
 外へ出る玄関のドアを少し開けて外を伺う。すえたタバコの匂いがした。見るとドアのすぐそばに黒い車を止めて、男達がタバコを吸っている。そこに日頃自分達を監視している男達がいることに気付いた。