ウ・テ・ル・ス

「特別なお客さんでね…今回をしくじったら、この会社どころか、社長が存続できるかわからないほどの影響力があるんだ。」
「影響力?」
「いや、森さんには関係ない話しだから気にしないで…。会社の問題だから、森さんはただ普通にしていてくれればいいんだよ。」
 三室は自分自身に舌打ちをした。いつになったら、このひとこと多い自分から解放されるんだ。

 車がクリニックに着いた。出迎えた看護師は、真奈美を病衣に着替えさせると、先進的な医療機器が並ぶ処置室に誘導した。処置室には、大きな鏡がある。真奈美は自分の姿をしばらくその鏡に映して見た。前と後とでもこの身体は変わることがないと秋良は言った。しかしこの身体の中にあるこころが、変わらないという保証を誰も言ってくれない。真奈美は鏡から目を背け、宇宙船のシートのような処置椅子を眺めた。座り心地は良さそうなのだが、産科椅子のように両足をそれぞれに載せる台が有って、処女の真奈美にしてみれば、かなり抵抗がある。躊躇する真奈美を、看護師はやさしく手を貸して座らせ、椅子を囲むようにカーテンを閉じた。
 耳元を覆うスピーカーから聞こえる森を流れる小川の音。腰もとをかすかに揺らす振動波。何処から漂ってくるのかラベンダーの香り。受精卵のスムーズな挿入を助けるように設計された数々の仕掛けに身をゆだね、真奈美は目をつぶって、出来るだけ頭を空にするように努めた。
 やがてカーテンが開く。いよいよだ。真奈美は大きく息を吸う。看護師は、その手を優しく真奈美の肩に添えて言った。
「森さん、今日は中止になりましたよ。」
 真奈美の全身の力が抜けるように感じた。このまま身体が溶けて、処置室の排水溝へ流れ出てしまいそうだ。説明できない笑みが、真奈美の顔いっぱいに広がった。

「ですから…ご主人の凍結精子を解凍して奥様の卵子と体外受精し、8細胞期胚、桑実胚、胚盤胞へと順調に育ったことを確認して再凍結しました。」
 守本ドクターは額の汗を拭った。暑さの汗ではなく、寒気からくる汗だ。  
「昨日それを解凍して生体活動を確認し、今日に備えたものの、ハッチングを見せず…。今朝になって完全に分割が止まって生体反応を失ってしまいました。…いただいたご主人の凍結精子に欠陥があったとしか…。」