ウ・テ・ル・ス

 確かに賠償が必要ないというのはありがたい話だった。ぶつけた車は高級外車だったから修理代も法外だろう。いくら保険とは言え、事故証明を取り、会社に事故報告をし、安全指導という名の長い説教を受けて、しかも保険の等級を下げて割引率を不利にするのは本意ではない。しかし、賠償しなくていいから、そのかわりオフィスに来いと言うのもなんとなく胡散臭い。来る前にインターネットで会社を確認するべきだったが、あいにくネットカフェに入るような余分なお金は持ち合わせていなかった。
 危険な匂いを意識しながらも、賠償の必要が無くなるからと、懸命に自分に言い聞かせてここにやって来た。実は、本人は認めたがらないが、ベルヴェデーレのアポロンをもう一度見てみたいという下心もあったのは事実だと思う。
「ここのオフィスに配達か?」
 入口にたたずむ真奈美に男が背後から声を掛けた。仕事が終わってすぐ駆け付けた真奈美は、まだ配送スタッフのユニフォームを着たままだった。
「いえ…。」
 問いかけられた真奈美が振り返ると、髪をチックでしっかりと整え、見事にフォーマルを着こなした若い紳士が立っていた。
「荷物ならここで受け取るぞ。」
「いえ、配送じゃなくて…呼ばれたんです。」
「集荷か?」
「違います…配送の仕事が終わったら来いって…」
「誰から?」
「あの…若い男の人で…ギリシア神話に出て来るような…背の高い…肩幅の広い…。」
「ギリシア神話?…ああ、社長か。しかし、なんで宅配便のにいちゃんを呼ぶ必要が…」
 男は、不審気に真奈美を眺めまわしたすえ、ようやく理解した。
「あぁ…君は女性か。」
「失礼な…。」
「それなら納得だ。一緒に中に入ろう。」
 男は慣れた手つきでセキュリティ・ナンバーを入力すると、ドアを開けて真奈美を中へ導いて行った。ロビーは、乳濁の白と艶消しの黒のタイルが直線的に組み合わされた壁面と床面で構成され、最小限の家具と象徴的な植栽だけが配置されている。そんなシンプルなデザインに加え室内のすべての灯りが間接照明であることも手伝って、その空間はあまりにも静的で、ここだけ時間が止まっているようだ。男はレセプションカウンターに置かれた電話を取った。
「社長がお呼びになったというお客さんがお見えですよ。…ええ、外見から判断しづらいですが、どうやら女性のようです。」
「ちょっと、さっきから…。」