ウ・テ・ル・ス

 真奈美は、キッチンで朝食の準備をしていた。よくよく見れは秋良が準備てくれた隠れ家は、とてつもなく古い一軒家で、リビングもキッチンもおよそ使用に耐えるものではなかった。秀麗は真奈美の体力が回復したことを確認すると、この家を出て故郷の香港に戻っていった。しかし真奈美は、この一軒家に留まり、精力的に掃除や模様替えをして、日本式とは程遠いものの、なんとか住めるような家に設えた。 今ではこの下町の市場で買った綺麗な花で飾られたキッチンで、同じく市場で選んだマレーシアの国花ブンガ・ラヤ(ハイビスカス)があしらわれたかわいいエプロンを身につけ、家事をすることが楽しくなっている。
 この家で特に気に入っているのは、以前絶望的な気持ちで雨を眺めていた大窓だ。この日は、朝だと言うのに家に差し込む光は力強く、明け放れた大窓から常緑広葉樹の香りを含む風が気持ちよくそよいでいる。
 部屋の奥から赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。真奈美の顔に自然に笑みが浮かぶ。
「母乳あげるから連れてきて。」
 真奈美が部屋の奥に声をかける。しかし、赤ちゃんの泣く声だけで何の返事もない。
「馬鹿ね、秋良はいないのに…。」
 真奈美はそう独り言を言って、赤ちゃんの元へ向かった。足元のアンクレットの鈴が、相変わらずすずしい音を奏でている。そして、今は一回り大きくなった赤ちゃんを抱いて大窓の近くに戻ってくると、真奈美は外の色彩の鮮やかな花々を眺めながら、赤ちゃんに母乳をあげ始めた。
 やがて、外木戸が開く音がした。入口に鍵が差し込まれる音ともに、ドアが大きく開くと、強い日差しを背負って、ナップザックを担いだ精悍な男のシルエットがそこ浮かんだ。真奈美は、その男を認めると、顔に一層の笑顔を浮かべ、赤ちゃんに乳首を含ませたままの恰好で、その男の胸の中に飛び込んだ。
「おいおい、母乳が飲めないだろ。それでも母親か。」
 真奈美は、男の言葉に構わず、久しぶりに感じるこの男の香りの中に全身の身をゆだねた。
「おかえりなさい。日本の用事はすんだ?秋良。」
「ああ、なんとかね。」
「そう…ところで出生届は何と言う名前にしたの?」
「鈴子だ。」
「今どき珍しいけど…でも、いい名前だわ。」
「これが、戸籍謄本。」
 真奈美が見ると、『夫/秋良、妻/真奈美、長女/鈴子』という表記がしっかりと見えた。