ウ・テ・ル・ス

「話しは、コーヒーが運ばれてきてからにしよう。君もお腹がすいているだろう。」
 そう言ってアポロンは、再びナイフとフォークを動かし始めた。
 やっぱり今日の事故は仕込まれたのか。あれは自分を呼びだすための口実だったのか。心の中で警戒警報がガンガン鳴っている。もしかしたら自分はこのまま拉致されて、アラブの見知らぬ土地で売られてしまうのか…。しかし、アポロンを見つめ続けているうちに、警戒警報の音色が段々変ってきた。もしかしたら、どこかで私を見染めて一目惚れしたのかもしれない。それで、話しをするきっかけが欲しくて、あんなことを…。ある社会心理学者は、人間は自分に振りかかる事象について、ほとんどがそのどちらかでもないのに、最悪のケースと最良のケースしかイメージできないと言っていたが、今の真奈美はまさにそういう状況であった。
 最悪、最良。その妄想を交互に繰り返しながらも、やがて真奈美の前のメインディッシュの皿も空になった。真奈美は、こんな状況でも食欲を失わない自分の性質を呪った。コーヒーが運ばれてくると、アポロンは改めて真奈美を見つめる。その緑がかった瞳に自分はどう映っているのか知りたくなった。
「今の君は、何処から見ても女性だ。安心して話が始められる。」
 残念ながら、アポロンの口からは綺麗なという形容詞は出てこなかった。
「俺の名は小池秋良。名刺の会社のCEOだ。」
 真奈美は、アポロンの名をついに知った。
「あらためて確認するが、君は森真奈美さんだよね。」
 真奈美は思いがけなく自分の名前を呼ばれて息を飲んだ。ただ、小さくうなずく。
「君を…うちの会社で雇いたいと思っている。」
 秋良のいきなりの申し出に、さすがの真奈美も仰天した。何か言おうとする彼女を遮り、秋良は言葉を続ける。
「先に報酬を言っておこう。君の家族が抱える負債の全額をこちらで引き取る。さらに母親の入院治療費そして妹さんの学費に充当できる充分な額を保証しよう。」
「貧乏人をからかうのもいい加減にしてください。」
 真奈美は秋良が言ったことがにわかに信じられずそう応じたものの、やがて重大なことに気がついた。彼は自分のことを知り過ぎている。
「むろん雇用に際しては、厳しい条件をクリアしてもらう必要がある。」
 秋良は真顔で言葉をつなぐ。