おれは、三年前の夏に日本最東端の町ねむろにやって来た。

それまではずっと大阪に住んでいた。

私立の医大に九年間在籍したあと自主退学し、実家に母と暮らしながら、小説の学校に通ったり福祉の仕事をしていた。

母と猫三匹をおいて、あるきっかけからこのねむろで暮らすことにした。

ねむろは面白い。

ねむろは漁師町である。また、牛を飼う人たちもいる。おれがいま暮らしている下宿の人なんかは、鹿を飼う会社に勤めている。

余談だが、鹿肉は高いが、なかなかうまい。さらに鹿の角は、テレビでやっていたが中国では高値で取引されるらしい。

鹿なんぞ北海道ではめずらしくないので、その辺におちているであろう鹿角を、中国に持っていってうりさばけやしないかと考えることが、最近よくある。

いまはわりと大きな加工場で働いているのだが、給料が少なくて。

標津にいる彼女に会いにいってごはんたべてカラオケしてラブホに泊まると、今月はもう金欠、という有り様だ。

それでも、はじめて親元をはなれてこんなへんぴなところで一応自立して暮らせているいまは、幸せなのかもと思う。

ねむろは不思議な町だ。

いつか、ここからまた旅立つ日が来るかもしれない。そのとき、いまの彼女と一緒に歩いてここを出ることができればと思う。

不景気と200海里問題と地方置き去りに悩む漁師町。浜のひとたちの、荒っぽい言葉遣いと優しすぎる心情。

おれは、本当にいつかここを出るのだろうか?

たまらなく嫌だなと思う日もある。こんな町で暮らしながらもまだひとりぼっちだと感じる日がある。

それでも、ひととの当たり前のつながりを欠きやすいおれの心の病気に治癒をもたらすものは、この町の濃密で緻密な空気なんではないかって、信じている。

感じている。

ひととのつながり、そして自立。それがおれのテーマなのだ。

おれはバツイチだ。前の嫁とは三ヶ月しか持たなかった。

暴力もふるった。足を蹴ってアザをこしらえさせたこともある。まるで、自分の所有物であるかのように自在に扱っていた。

出ていけ!

そう叫んだら本当に出ていった。本当に捨てられた。

荷物もなにも置きっぱなしにして。それらのものを処分するのに一年以上かかった。

町の商店街の井戸端サロンの美人管理人と口を交わすようになってから、元嫁のコートなんかを捨てることができるようになった。元嫁の親からもらった骨董品やまじないの品なんかもそのとき一緒に捨てた。

まだ捨てていないものもある。

手編の、赤ちゃんの服だ。
これもまじないかなんかの意味があるんだろう。

こども、欲しかったんだろうな。

そう思う。

もう結構な年だが、おれにはまだ子供がない。

自立だってままならぬくらいで、今朝、処刑される夢を見た、それはいいのだが、殺されそうになったとき、

まま!!

と叫んでいた。母親に助けをもとめていた。

母から借りた借金十万二千円に、妹から借りた六万円も返していかないと。

あと、車のローン二十万円と市税滞納八万円。

返していかないと。

本、出せないか?

どこかから本、出せないか?

無理かなぁ…

ねむろに来たきっかけというのが実は根室新聞の記者になることで、その仕事は三ヶ月しか持たなかったが、これでも一応筆一本で自活した期間がわずかと言えどあるのだ。

語尾だのなんだのに一々口を出されて内心辟易としていたが、辞めた本当の原因には病気のこともあると思う。

自分の存在や書くものが世界に甚大な影響を及ぼしていると錯覚して、怖くなったのだ。

いや、影響力そのものにではなくて、その影響にたいするひとびとの不思議な暗号めいた反応に恐怖したのである。

いまは、通院し、自立支援制度を活用して今月分からの精神科受診料、薬代とも1割になる予定である。

きちんと薬を飲みながら自立を目指す。

三割負担でまじめに毎日飲むには、ジェネリックのないジプレキサというお薬は、少々お財布を傷めるのでありまする。

だから、1割負担の制度はありがたい。

ついでに手帳も申請したけどね(爆)

これは、中標津に行くバス代が半額になる優れもの。彼女に会うのにかかる費用を削減できるのだ。