誰かせわしなく扉を開け閉てする物音で我に返りました。いつもの小刻みな足取りでマツバラ女史が入って来るのでした。彼女は遅くなったのを詫びて、今日は『喜びの島』を研究します、いま『喜びの島』をやっているのは貴方がたお二人だけだから、今日から三回、我々三人で研究を進めますと宣言しました。貴方がたお二人はお互い知っていたかしらと、僕を見て尋ねました。僕ははいと答えました。彼女はそんなら早速始めましょうと云って、滋子に弾いてみないかと提案しながら腕を伸ばして鍵盤に向けました。云うまでもなく、僕は滋子が弾くのを聴くのはそれが初めてでした。僕を驚かした事に、彼女は椅子に座ると何の合図も断りもなく音階を弾きだして、暫くそれで遊んでから、今度は気まぐれな和音をあれこれ奏でていましたが、これまた何の合図も断りもなく、本演奏に移りました。ただその事一つで僕は気を呑まれてしまいました。ところで貴方は彼女の演奏をよく御存じです。その夕方の彼女の演奏がどんなものであったか、説明は省きましょう。彼女は一度も止められることなく、全曲弾くことを許されました。マツバラ女史はただ“今のは非常に良かった、”といって笑顔を浮かべました。さて僕の番になりました。御存じかも知れないように、小品は長いトリルで開始します。その冒頭のトリルを行いつつあった僕の右手をマツバラ女史はいきなり抑えて、駄目を出しました。“こんな風に、”と始めの数小節を実演してみせました。その夕方の僕の演奏がどんなものであったか、残りの説明は省きましょう。僕は何度となく止められ、やっとの事でおしまいの最低音を叩き出すことを許されました。アルペッジョは余りに弾き違えが多いので、マツバラ女史は閉口していました。