去年の十一月、最初の水曜日、ニューヨーク・スタインウェイのコンサート・グランドが据えられた室にいつも通り入って行くと、先客が一人、ソファーに掛けてマツバラ女史が来るのを待っていました。僕が入って来たのに気づくと、彼女のほうから軽く会釈してコンバンワを云いました。彼女が掛けているソファーは三人しか掛けられない小さな物で、生徒たちは、ピアノに向かっていない間はそれに掛けるか、そうでなければ床に座るかして、授業に参加するのでした。通常の授業は四人乃至六人ですから、二人がソファーを占め、二人乃至四人が床に座りました。僕は、その生徒と一緒になるのはその時が初めてでした。何でもない場合なら、僕はその先客の女生徒にコンバンワを返して彼女が座っている反対の端に掛けるところです。そして、自己紹介をした事でしょう。これはしかし、何でもない場合とは違いました。僕の入室と同時に片端に寄り、座りやすい状態にしておいて、ほのかな笑顔で見上げているこの女性を前に、僕は自分が統合不全に陥りつつあるのを意識しました。そこに道化のように突っ立っていました。いっそ顔に[おしろい]白粉が塗ってあったなら、少なくとも赤面の恥ずかしさからは逃れることが出来たでしょう。一瞬間、ソファーに掛けたものか床に座ったものか迷いました。でも、後の選択肢はいかにも不自然であるに違いない。僕はおずおずソファーの反対側に[あと]能う限り小さな領域を占めるとともに、コンバンワを云いました。自己紹介もしないで、手に持っていた(神よ感謝!)ドビュッシーの『喜びの島』の譜面を開き(これが課題曲でした)それに没頭し始めました。親愛なる叔父さん、僕の無様さと頭の混濁を想像して呉れるべきです。