『知覧の桜』


月が西の空に傾き、東の空が次第に明るさを増しゆく夜明け前。

薩摩の小京都と云われる知覧の古い町並みは未だ静まりかえっているが、町外れの小高い台地に設けられた陸軍航空隊所属の知覧基地は喧騒のさなかにあった。

滑走路の列線に並んだ戦闘機の発動機が暖気運転をしており、低回転で回るプロペラが生み出す風が機体の後ろに砂煙を舞い立たせている。

飛行服に身を包んだ少年は、整備兵の邪魔にならぬよう、少し離れたところから微笑みさえ浮かべながら愛機の準備が整うのを待っていた。

陸軍四式戦闘機『疾風』

その性能の高さ故に大東亜決戦号と期待を込めて称された名機が、今では機体に塗装さえされずに銀色のジュラルミン剥き出しで、少しでも軽くするために機銃や無線機も取り外され、燃料さえもオクタン価の低い粗悪なガソリンが片道分しか入っていない。

かわりに垂直尾翼に描かれた菊花と爆弾のマークと、翼下に取り付けられた二十五番爆弾。

今、暖気運転中の数機の疾風は、沖縄沖に展開する米機動部隊に体当たり攻撃をかける為に間もなく出撃する。

知覧基地は、陸軍特攻隊の出撃基地であった。


ついに出撃命令が下り、特攻隊員の少年は世話になった整備兵たちに礼を述べて愛機に搭乗した。

回転数を上げた発動機の爆音が滑走路に鳴り響き、整備兵が帽子を、特攻隊員たちの身の回りの世話をしていた女学生たちが桜の枝を振って見送る中、次々に特攻機が離陸していく。

少年は風防の硝子越しに見送りの女学生の中から思いを寄せていた少女の姿を探し出した。

泣き顔の彼女に向けて精一杯の笑顔で敬礼してみせる。それに気づいた少女もまた、泣き顔のまま精一杯の笑顔を返す。

「それでいいんだ。俺はお国のためじゃなく、君のその笑顔と未来を守るために逝くのだから」

そう言って前に向き直る。



離陸して、彼女から自分の様子が見えなくなってからやっと、少年は笑顔の仮面を脱ぎ捨て、操縦桿を握りしめたまま憚ることなく声を上げて泣いた。



残酷な時代は若者たちに、愛する人との幸せな未来を夢見ることさえ許さなかった。


Fin.