「ウィング」

アクアは少し悲しそうにウィングの方を向いて、ヘタッと笑う。

「もっと一緒に、いたかったんですけど」

ホセはピクッと反応して、ゆっくり首を傾げた。

別に言った意味が分からないわけでは…ないと思う。

ごまかすようなそのしぐさに私はそっとホセの服の裾を引いて、軽く引っ張った。

促されるようにホセは私のほうへ一歩ほど後退する。

「えへへ、あの子たち、お願いします」

泣きそうな笑顔で、アクアはそういった。

ウィングはアクアの肩を黙って抱き寄せ、掠れた声で、でも決意に満ちたような声で淡く囁いた。

「俺が…あの吸血鬼を殺してやる…だから」

ゆら、と一瞬だけホセの体が傾いだ。

「やめて」

アクアは真剣に、きっぱりとそう言い放った。

「やめてください」

「アク…」

「あの吸血鬼じゃない、お兄ちゃんは、お兄ちゃんです。そんな悪意のこもった呼び方しないで」

「なんでそんな、死に際まであいつの心配してるんだよ。お前が死ぬなんて俺は…」

「生きてはいけない理由はなくとも、生きなくてもいい理由はあります。そんなことを言う世捨て人ではありませんが。しかし結局は私はお兄ちゃんに甘えて生きてきたようなものですからね。お兄ちゃんの庇護下でなければ私は生きてなどいけません。それに」

お兄ちゃんの望むことが私の死ならば、それすら私は叶えたいんです。

「命などではとても釣り合えないほど、私はお兄ちゃんに頼りすぎましたから」


そういってアクアは微笑んで、ウィングの肩に頭を乗せた。

その憂うような表情はホセにどこか酷似していて、その自嘲が一瞬ホセに重なった。

「そんな最もらしい理屈を言っても、しかしそれは中身のない装飾でしょうけれど。生きたい理由がある限り人は生き続けるべきです…しかしそれは時に覆ってしまうものなのですね」

「アクア」

「お兄ちゃんに嫌われたくない一心ですからね、私が今正気を保っているのは…誤解を恐れずに言うのなら、今この手でクラウンを絞殺したいくらいです。私が死ぬのに生きるなんて、ましてやお兄ちゃんの隣で。こんなに恨めしいことがあるでしょうか」

やや芝居のかかった言い回しは、確かにアクアに余裕がないことを感じさせた。

そしてそれがじわじわとホセを追い込んでいく。

ホセの表情は分からないけれどもしかし、こんな時に平然としていられる人じゃないことは分かってる。


私が知ってる。


せいぜい悪ぶって見せても、結局は上っ面なんだから。

結局ホセは、悪い人を演じるのが苦手なの。

ホセは、悪にはなれない。


「でもまあ、よしとします…か…へへ、そうするしかないんですけれども」

「アクア、俺がホセを殺す。クラウンも…俺はお前が死ぬのはいやだ…」

「いえ、かなわない相手にわざわざ挑むことはありません。秘策もなければ勝機もない…私は感謝すべきなんです。苦しまない方法をとってくれたお兄ちゃんを、猶予をくれたクラウンを…できるものではまあ…ないですけどね」

そんなことはないと、私は思った。

私はともかく、力ずくでアクアに抵抗されてそれでも強硬になれるほど、ホセは悪魔的な人じゃないから。

きっと身を挺して、命を捨てて、私たちを守ると思う。

ホセはそういう人だから。


完璧で、完全で、玉に傷一つない非の打ちようがない人。

誰もが憧れ、手にしたいと願う力も知識も人格も兼ねそろえた素晴らしい…人。

それゆえ脆く崩れやすく、危うく。

結局誰もが憧れるホセは、誰もが手に入れたい理想の人だったんだから。

誰かが願った自分勝手な欲望を、すべて兼ねそろえて差し出す完全なホセは。

家族を傷つけられる人じゃない。

それを罰する、危うい自罰的な人だから。


それでも私を選んだホセは、一体どれだけ…

「もういいだろう」

自分を傷つけたんだろう。

責めたんだろう。

苦しめたんだろう。

責めて責めて責めて。

罰を、与えたんだろう。

「それは急速に体を駆け巡る。心臓を止め、脳を眠らせる。苦しくない。ほんの、数十秒だ」

何とか悪ぶって、悪者を演じようとしたホセはでも、声の震えを止めることはできなかった。

そのセリフを言うだけで、ホセにとっては罰になる。

拷問以上の、責め苦になる。

「ウィング、クラウン、お兄ちゃん」

きっとその言葉がホセにとってどれだけつらいか、アクアはきっと分かってる。

でも言わなきゃ、あまりに報われない。


「大好き、大好き、大好きです。絶対、忘れない」


アクア、と叫んだのは、ウィングだけじゃない。

ダン、と強く床を蹴ってホセもまた、カラン、と空虚な音を響いておかれたグラスに添えられた手を強くとって何度も、アクア、アクアと叫んだ。

飲みくだされた甘い毒はアクアの体には強すぎて、数秒足らずで薄く開いていた瞼も静かに閉じられ、口元が笑みを形どって。

「みんな、大好きです!」

ぱっちりと一瞬大きく目を開け、輝くような微笑みと一緒にそう言って、アクアは。

一度大きく息を吐く。

そして眠るように、静かに、静かに。

何かを失った右手が、もう何も感じられなくなったように。

わずかにピンク色の残ったほおはゆっくりと、白く、石のように冷たくなっていった。