現在では「アルザス・ロレーヌ」やドイツ語での「ロートリンゲン」と呼ばれている地域は、スイスに近いだけあって、朝が厳しい。
 空気は澄んでいて綺麗というのが分かるが、息は真っ白になり、辺りは靄(もや)に支配され、よく見えなかった。
 そんな中、黒マントの男が外に出て、馬小屋へと向かった。

 ヒヒン。
 馬の嘶(いなな)きが聞こえ、まだ暗い部屋の中で、少女は目を開けた。
 ベッドの左端を手で触り、そこに誰もいないのを知ると、彼女はバッと飛び起きた。
「バート!」
 そう叫んで。

 時を同じくして、農家からそっと出ようとする少女の姿があった。
 家の中の者が皆寝ているのを確認すると、少女は安堵の溜息をつき、そこから足早に去ろうとした。
「本当に一人で行くつもりだったのか……」
 その時、横からそう言う少年の声が聞こえ、少女は振り返った。
「ジャン……」
 そう呟くように彼の名を呼んだ少女の視線の先には、馬を連れた少年がいた。
「当たり前だ! お前を一人で行かせる訳が無いだろう! 俺も行く! 連れて行け!」
「兄さん……」
 ジャンと名前で呼ばずに「兄」と呼んだジャンヌに、ジャンは苦笑した。
「兄としてでも、妹だけをそんな危ない所に行かせられるか!」
「でも、兄さんまで来ちゃったら、父さん達が……」
「ピエール兄貴がいる。だから、大丈夫だ」
 彼はそう言うと、連れて来た馬の手綱を差し出した。
「でも……」
「早く乗れ! お前は、このフランスを救うんだろ? そんな奴が、こんな所でグダグダ言ってていいのか? 大天使様達のお告げを受けたんだろ? だったら、しっかりして、早くヴォークルールに行くんだ!」
 ジャンのその言葉に、ジャンヌの目から戸惑いの表情が消えた。
「はい」
 彼女はそう言うと、ジャンから手綱を受け取り、馬に跨った。
「でも、兄さんは?」
「俺は、いい。歩いて行く」
「少し距離があるわよ?」
 そう言うと、ジャンヌは馬上から手を差し伸べた。
「い、一緒に乗ると、こいつが可哀相だろ」
 そう言いながら馬の首を撫でるジャンの顔は、気のせいか少し赤かった。
「サラブレッドじゃあるまいし、大丈夫よ。元々、農耕用の子なんだから」
「だけどな……」
「急げ、って言ったのは、兄さんよ?」
 そのジャンヌの言葉に、ジャンは彼女を見上げた。
「さぁ、早く」
 そう言うジャンヌの手をつかむと、彼も馬に跨った。
「ヴォークルールの傍まで行ったら、降りるからな」
 そう言いながら手綱を操り、馬を走らせたのは、彼の方だった。