現在、「ヨウジイ」の名で通っている中国人系の男の本名は、楊冶論(よう・じろん)と言い、元々は商人だった。
 十七世紀になると、現代でも有名なマイセンの前身となる「王立ザクセン磁器工場」がドレスデンに設立されるが、この頃はまだそれより三百年程前。稀に入って来る中国磁器が珍しく、王侯貴族の間で争うように買われていた。
 楊もそんな貴族達と取引する商人の一人だった。と言っても、彼は一介の東洋人。直接取引出来る訳も無く、さる人物を介して、だったが。
 その「さる人物」というのは、商人によっても違っていたが、楊がよく会っていたのは、黒髪に白いものが混ざった、小柄な男だった。
 パッと見た感じは冴えなさそうな男だったが、つい先日、王直属の侍従長になり、その信任をいいことに、権力を欲しいままにしていると評判の男だった。
「その値段では、我々が暮らしていけません。はるばるここまでお持ちするのに、どれだけの労力がかかるとお思いですか? もう少し色をつけて頂きませんと……」
 だが、相手の男は、シルクロードを経て持って来た品々を、通常よりかなり安い値段で買おうとし、譲らなかった。
「フン、嫌というのなら、わしは買わぬ。他所で売ればよかろう。だが、陛下の信任厚きわしを見限るとなると、その見返りは高くつくがな」
 ニヤリとしながらそう男に、楊は顔をしかめた。
「私どもにも生活がありますので、今回は他所を当たらせて頂きます」
 楊はそう言うと、持って来た鞄を閉め、その場を後にした。
「フン、バカな東の猿め、わしに逆らったことを後悔させてくれるわ1」
 男はそう言うと、傍にいた黒ずくめの男に手で指示を出した。

 薄暗い路地を急ぐ馬車。
 その車輪が突然、音をたてて外れ、馬車が大きく揺れて倒れた。
 カラカラカラ……と音をたてて回る馬車の車輪に近付く、黒マントの男、数人。
「やったか……?」
 彼らの一人がそう言った時だった。
 シュッ!
 何かが空を切る音がしたかと思うと、男の一人が地面にドサリと倒れたのは。
 他の男達が周囲を見回すと、又一人が地面に倒れた。
「そこか!」
 残った男がそう言い、物影に向けて銃を構えた時だった。シュンという何かが宙を切る音がしたかと思うと、その銃が路上に落ち、次の瞬間、バンババンと爆発が起こったのは。
 この頃のマスケット銃は、後に十七世紀位に広まるフリントロック式の銃とは異なり、マッチロック式の粗悪品で、しかも威力を高める為に金属片等を混ぜていた。今回の暴発もそのせいだったのだが、銃を落としたのは、少し離れた場所から放たれた矢だった。
「何者だ!」
「何とか間に合ったか!」
 馬車の傍にいた男がそう言ったのと、物影から一人の背の高い男が現れてそう言ったのは、ほぼ同時だった。