「まぁ、蹴りましたわ!」
「本当?」
 マルグリットはそう言うと、シモーヌのおなかに手を当てた。
「まぁ、これかしら?」
「はい」
「ふふ、元気そうで、何よりだわ」
「男子でしたら、宜しくお願いしますね」
「ふふ、任せておいて!」
 幸せそうに微笑みながらマルグリットはそう言ったが、約1ヶ月後生まれて来た子は女の子だった。

 シモーヌはその後も身籠ったが、残念ながら総て女の子だったので、アルテュールは1443年に正式に庶子のジャクリーヌを嫡出子に改めたものの、兄から受け継いだブルターニュ公の地位は、兄の孫のフランソワ2世に継承されたのだった。

 一方、ルーアンで火刑になったジャンヌ・ダルクのその後はというと、18年後の1449年11月10日、ノルマンディー地方を奪回した国王シャルル7世がルーアンに入城し、翌年には裁判についての調査を命じた。
 その際、書記を務めた公証人のギヨーム・マンションらが証人として証言したと記録されている。
 やがてそれが、1452年と1453年の二度にわたる公式な調査を経て、異端審問所における裁判となり、ジャンヌの母イザベル・ロメがパリのノートルダム大聖堂で、ローマ教皇カリストゥス3世が派遣した委員の前で嘆願書を読み上げることにまで繋がっていく。
 そこで、彼女は言った。
『私には、正式な結婚で生まれた娘が一人いました。私は娘にきちんと洗礼と堅信の秘蹟を受けさせ、神を敬い、教会の伝統を重んじるように育てました。畑と牧場の中という素朴な環境の許す範囲内ではありましたが、娘はよく教会に通い、毎月告解をして、聖体も拝領していました。
~(中略)~
 娘は信仰から離れたり、信仰を否定するようなことを何一つ考えたり、口にしたり、行なったりしたことはないのに、敵の人達は娘を宗教裁判にかけました。そして娘の異議申し立てや訴えにも耳を貸さず、不実で乱暴で、極めて不公平な、正しさの欠片も無い裁判において、忌むべき犯罪的なやり方で娘を有罪にし、残酷にも火あぶりの刑に処したのです』
 それから彼女の少女時代を知る人の尋問が1456年1月28日に開始され、7月7日にはルーアンにて「処刑裁判は無効である」と宣言が出された。
 ジャンヌ・ダルクの火刑から実に25年ぶりのことだった。
 その頃には残念ながら、ジャクリーヌと改名したシモーヌも、共にオルレアンで戦ったラ・イールもこの世を去っていたが。