「善良公フィリップ」Philippe le Bon とは、ブルゴーニュ公の通称だった。領地で善政をしいていたので、そう呼ばれていた。
 ならば、まだ18になるかならないかの少女をみすみす処刑台に送るような真似はせずともよかろうにと思うのだが、そうはいかぬものらしい。
 「奇跡の少女ジャンヌ・ダルク」の中でレジーヌ・ペルヌーは、年代記作者ジョルジュ・シャトランは彼を「ふうぼうから判断すると皇帝のようにも見え、生まれつき備わった優雅さは、王冠をいただくべき人物として実にふさわしかった」と語ったと記している。
 又、彼自身が「自分が望みさえすれば、私は国王になっていたということを、人々に知ってもらいたいと思う」と語った、とも。
 そんなフィリップは、アルテュールの最初の妻、マルグリットと共に、アルテュールの幼馴染でもあった。フィリップが1396年、アルテュールが1393年生まれなので、アルテュールの方が3歳年上だったが。
 幼い頃、アルテュールの母ジャンヌ・ド・ナヴァール Jeanne de Navarve が彼や兄(後のブルターニュ公ジャン5世)、姉マリー(後にアランソン公ジャン1世の妻となる)を置いて、イングランド王ヘンリー4世の妻となってイギリスに渡ってしまった。それ故、アルテュールはパリでオルレアン公シャルル Charles Ⅰ de Valois, duc d'Orleans、豪胆公フィリップ Philippe Ⅱ le Hardi の後見を受けてブルゴーニュに迎えられた。そこで、豪胆公の孫のフィリップたちと出会ったのだが、それも長くは続かなかった。
 1410年からアルテュールはアルマニャック派に属したのだが、そのアルマニャック派によってフィリップの父、無怖公ジャン1世 Jean sans peur が殺害されたので、対立することになったのだった。
 フィリップは父が殺害されるとすぐに、ブルゴーニュ公を継いだが、同時にそれは、彼の身も一つ間違えば危ういということだった。
 そこで彼は、そのアルマニャック派が推す王太子シャルル(後のシャルル7世)に対抗する為、フランス王位を要求していたイングランド王ヘンリー5世(アルテュールにとっては、異父兄にあたる。母ジャンヌの子ではなく、先妻の子だが)と同盟を結んだ。
 それ以降、イングランドが優位に立ち、オルレアンを落とせば、フランスはほぼイングランドのもの、というところまで追い込まれたのだった。あの乙女、ジャンヌ・ダルクが現れるまでは。

「あなた……」
 兄のことを普段は「ブルゴーニュ公」と領地の名で呼んでいるのに、今回に限り「善良公」などと呼ぶ夫に、マルグリットは顔をしかめた。
「いやなに、私は別にそなたの兄を嫌っておるわけではないのだ。だから、気にするな」
 アルテュールがそう言いながら、不安そうに自分を見詰める妻の頭を撫でると、不意にドアの辺りで女性の声がした。
「でしたら、どうか我が家のこともお気になさらず、ごゆっくりなさって下さいまし」
 その横からそう言ったのは、上品で、少しふっくらとした女性だった。