異端審問所の裁判には、二人の判事が必要だった。一人は罪が犯された地の司教であり、もう一人はフランス王国異端審問官であった。
 パリ北部、ボーヴェで司教を務めていたブルゴーニュ派のピエール・コーションは、教区の臨時責任者に任じられることで、その「罪が犯された地の司教」という立場になったとし、ボーヴェの町がシャルル七世を支持すると決めた時、命からがら逃げだした恨みを晴らそうとしていた。「魔女」としてジャンヌ・ダルクを血祭りにあげることによって。
 一方、もう一人の判事たるフランス王国異端審問官は、イギリス側のジャン・グラヴランだったが、代理にドミニコ会修道士ジャン・ルメートルを任命していた。
 だが、彼は、この裁判に良心の呵責を感じ、法廷で一切積極的な役割を果たさなかった。流石に裁判そのものまでは否定しなかったが(或いは、「出来なかった」のか)。
 とにかく、ピエール・コーションは強引に彼の言う「立派な裁判」を進めていった。ジャンヌ・ダルクという、やっと18歳になるかならないかの無垢な少女を火刑にする為に。
 1431年1月9日~3月26日に調査や尋問を中心とする予備審理が行われたが、ドンレミ等での証言は、総てジャンヌに有利な内容であった為、ピエールはそれを記録に残さなかった。
 又、異端審問の慣例に反し、ジャンヌには弁護士が一人もつけられず、更には、被告が女性の場合は牢番も女性でなければならないというのに、戦争捕虜としてイギリス軍が支配する城の牢に入れられ、足には鎖をつけたまま、男性の牢番によって見張られていたのだった。
それだけではない。
 規則と折に城内の礼拝堂で尋問を公開していたのも最初のうちだけで、3月に入ると、牢内で非公開で行われるようになったのである。
 おそらく、ジャンヌ本人を精神的に追い詰め、彼女を確実に火刑にせんとする為、不利な証言等を残さない為に。
 イギリスのベッドフォード公 John of Lancaster(1389~1435)の夫人で、ブルゴーニュ公の妹でもあるアンヌの監視下で、ジャンヌは処女検査を受け、処女であることが確認されても、その事実は裁判記録の中に記されなかった。
 それでも、その時ベッドフォード公夫人アンヌが、ジャンヌに暴力をふるわないよう、イギリス人牢番に命じた、と記録に残っているので「裁判記録」という公的なものに残っていなくても、ジャンヌを気遣い、気の毒に思う者達が少なからずいた、ということは間違いない。それが「敵」側であっても。