だが、まだシモーヌは目の前の彼女を見ようともしなかった。
「シモーヌ、愛する人が亡くなって、辛いというのは誰でも一緒なのよ。こんな世の中だもの。愛する人を亡くしていないという人の方がいないはずだしね。でもね、乙女は、そんな人達の唯一の希望なの。今や、フランスの心の支えといってもいい位だと思うわ。シモーヌ、貴女、本当に忘れちゃったの? オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクのこと」
「……ジャンヌ……ダルク……」
 その名をシモーヌは繰り返すと、ゆっくり目の前のマルグリットに焦点を合わせていった。
 それに気付き、マルグリットはほっとした表情で続けた。
「そうよ。オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルク。覚えているわね? 貴女の愛するバルテルミが最後まで守ろうとした人よ」
「バートが守ろうとした……乙女……」
 その言葉を繰り返す彼女の脳裏には、あの小さな宿屋で、自分を庇って怪我をしたバートの姿が映し出されていた。
『誘ったのは、そっちだろ』
 あの晩は、まだ髭を生やしておらず、胸には包帯を巻いていた。
『バートさん、じゃないだろ? 「あなた」だろう?』
 まだその包帯を巻いたまま、そう言ってドン・レミ村で夫婦役を演じていたバート。思えば、この時が一番幸せだったのかもしれない。その後、彼は乙女を守ろうとして、一人で雇われ傭兵隊長を引き受け、自分の命運が尽きることを予測して、シモーヌとの距離を置きだしたのだから。
 そして、あの赤い記憶……。
『シモーヌ……愛してる……。最期に会えて……よかっ……』
 彼と同じように乙女を守ろうとし、傍についていた乙女の兄ピエールも言っていた。バートは娼館には行かず、一人でいることが多いと。まだきっと貴女のことを愛しているはずだと。
「どうして信じてあげられなかったのかしら……」
 最後の最期まで自分への愛を一人、貫き、散った男の姿を思い出しながら彼女がそう呟いた時だった。
「シモーヌ……? 乙女を信じてあげられなかったの?」
 マルグリットがそう尋ねながら、彼女の涙をそっと拭ったのは。
「乙女ではなく……バート……」
 自分の方を見ずにそう答えるシモーヌに、マルグリットは目を丸くした。
 そう……。そういうことだったのね。何があったのか、詳しいことまでは分からないけど、彼のことを信じ切れずに距離を置いたけれど、彼はシモーヌのことを一途に想っていて、最期までそれを貫いた。だから、後悔と自責の念に捕らわれ、普段は強いこの子もこんなになってしまっている、ということね。
 心の中でそう呟くと、マルグリットは優しい声で言った。
「吐き出してしまいなさい、シモーヌ。貴女の心の叫びは、総て私が聞いてあげますから」
 その彼女の声に呼応するかのように、シモーヌは号泣した。