約束の休日はよく晴れた。空の青さは濃く、雲も白さが濃かった。都心へ出る急行は朝早いせいか空いていて、弓音は七人掛けの座席の空いた真ん中あたりに座った。ひと飛びに駅のホームを二つほど超えると眠気が襲ってくる。

 「らしくねえの」
 それは、夢ではなくて記憶だ。そして記憶ではなく夢だ。
 航が笑っている。右手はジーンズのポケットに突っ込んだまま、左手を弓音に伸ばす。触られる?と思って身を竦めた瞬間に、その指は弓音の頬をこする。人差し指を確かめて弓音に見せながら航が肩を揺すっている。それから彼は突然走り出す。部室棟へ向かう石畳を跳ねるように踏みながら時折弓音を振り返る。するとあたりは何故か暗くなっていて、人文棟の切れ目に月がひっかかっている。「引っ掛かっているなぁ」と夢の中の弓音は思う。月を見上げている弓音はなぜかもう部室棟の踊り場にいて、月が隠れたと思うとそこに航の顔があった。口元は笑っているのに、どこか困ったような顔をしている。「あ、」と弓音は気づく。キスされる、と思った瞬間に目が覚めた。ターミナル駅だった。

 心臓をぎゅっと掴まれたように感じる。これ以上は無理だと思うまで縮こまった心臓は、座席を立ち上がり、電車を降りると絞りきった血液を体中に吐き出して、弓音は人の波の中で立ち止まった。迷惑そうに弓音を振り返るのは休日出勤なのだろうか、きっちりとスーツを着て足早にホームを歩いて行くサラリーマン風の男だ。

 「休日出勤・・・か」
 弓音は胸の中だけで呟く。既婚者が休日に外出することの意味を改めて考えてしまうのは、自分という人間の頭の固さなのだろうか。夫には「大学時代の友人と会う」と言った。金曜の夜にそれを伝えたときは少し上の空のように見えたし、土曜日の昼にそれを言ったときには新聞紙を広げたまま、顔も上げなかった。弓音は子供がいないせいか、どちらかといえば身軽なほうなのだろう、学生時代の友人も含めて相手が独身でも所帯持ちでも休日や終業後に会うことは珍しいことでもなかった。それでも週末に出かけるときにはほんの少しだけ胸に詰まるものを感じる。

 つい習性で改札口をいつもどおりに通りすぎ、いつもの乗り換えの改札口に入ろうとしてふと我に返った。急に方向転換をした弓音に、高校生くらいのどこかメイクの浮いた若い女性があからさまにいやな顔をする。「ごめんなさい」口早に言って、弓音は改札を背にした。(私が高校生くらいのときは…)とふと昔を思う。ついこの前のことのように、友人達の顔を思い描き、恩師の笑顔や真面目な顔を次々に思い出す。制服のセーターの袖口。長すぎるリボンを短くするために結んだ結び目。放課後の教室で結びなおしたリボンを見て、 「なんでそんなことするの?」と、あの頃弓音が片思いをしていた同級生の男の子が言った。あのときの彼の揺れた前髪。そして、彼が顔を上げる。
 白昼夢のような思い出の中で顔をあげた彼はなぜか、航になっている。