「あ、そうそう、これを話そうと思ってたんだった。」

 と、航は煮魚の上にのった生姜をよけて身をほぐしながら言った。

 「ゆみさん、覚えてる?学生時代によく行ったじゃない、古い喫茶店。アイスコーヒーがうまいとこ。」

 「もちろん覚えてるよ。寒くてもアイスコーヒー注文しちゃったよね、ほんと美味しかった。『向日葵』、だったよね。」

 「そう、『向日葵』。よく覚えてるね。あの店ってさ、だいたい『"別館"行こ』って言ってたじゃん。だから名前を覚えてないやつも多くて。」

 「あー、はいはい、確かにね。」

 「あそこねー、閉めちゃうんだってさ。」

 航は口元に運んだ煮魚を、間を置いてからぽいっと口に入れた。そのほんの一瞬の間が何かを語っているような気がして弓音は言葉を探した。ビールのグラスを持ち上げて、おろした。自分たちの青春の場所がなくなることの寂しさとか、そんな単純なセンチメンタルな理由ではなくて、もっと大事な何かが欠けていくような気持がするのはなんでなんだろう。おそらく航も同じような何かを感じているのだと弓音はなんとなく分かった。それだから安易に「そうなんだね」とか「残念だね」とかいう言葉を紡ぐことができなかった。

 「なぁ、あのさ、ゆみさん」

 どこか感慨深げに煮魚をつまんでいた航が箸をおき生真面目な顔をして弓音に身体を向けた。

 「『別館』が閉まっちゃう前に、一緒に行かない?今度の土日とか、来週とか、再来週とか、いつでもいいけど。」

 そして、

 「アイスコーヒー、飲みに。」

 と、取ってつけたように言った。弓音はビールを一口飲んで

 「ん、そうだね、アイスコーヒー、飲みに行くか。ちょうどいい季節だし。」

 「まじめに淹れた、アイスコーヒー。」

 「そうそう、まじめに淹れたやつ。あと、そう、マスターの描いた向日葵の絵」

 弓音がそう言うと航は唇を少し曲げてほほ笑んだ。弓音の目を見つめた。その視線に弓音が居心地悪くなる寸前に航は

 「それな。」

 と指を立てて目をそらした。



 「あいよ、お待たせ。串揚げ盛りね。」

 カウンターの向こうから四角い土皿に乗せたフライ串が来て、航は機嫌よさげにウズラ卵の串をつまみ、ゆらゆらっと揺らした。そしてかじりつく寸前に弓音の視線に気づいて

 「あ、これ、ゆみさんも好き?食う?」

 と弓音に串をぐいっと差し出す。

 好きでも嫌いでもないと思ったけれどせっかくだからと何も言わずに噛り付いてみたもののあまりの熱さに「あっつ!」と口を離した。航は弓音の歯形のついた卵にふうふうと息を吹きかけて

「ほら。」

 と、もう一度差し出した。弓音は今度は注意深く歯を立てて器用にたまごを串から外した。航はそれを見守って、ひとつ卵が欠けた串に噛り付き、やはり「あちーな」と頷いて弓音と同じように歯を立ててひとつ卵を外した。

 「だから言ったじゃん。」

 と弓音は言ってやった。

 航は

 「ゆみさんがふーってやってくんないからだろ、バーカ、バーカ。」

 と笑った。