グリルの肉を切り分け野菜を口に放り込みながら、黒岩は営業先の担当者との面白可笑しい出来事を目を細めて話している。黒岩の目尻の皺が目立つようになったなと思い、それではまるで夫婦みたいだとおかしくなった。それから不意に自分の夫のことを思い出して、彼の目尻の皺について考えた。最近夫の顔をしみじみと見ていない、と気づく。
 「なに、どうしたの?」
 じっと見つめる弓音に気づいた黒岩がフォークを器用に使いながら尋ねる。
 「いやぁ、こんな事言ったら、黒岩さんの奥さんに怒られちゃうけど、私、夫の顔よりも黒岩さんの顔の方をよく見てるんじゃないかと」
 「そりゃー、俺だって同じでしょう。24時間の内、圧倒的に一緒にいる時間が多いんだからねえ。」
 「そうなんですよね・・・。変な話ですよね。」
 「そんなもんだよね」
 「一緒にいる時間、というのは、人間関係においてどれくらい影響するのでしょうね。」
 「お、なんだなんだ、どうした?キナ臭い話?」
 「いやいや、そうじゃないけれどもー」

 長く一緒にいれば、分かり合えるというものではない。長く会わないでいれば、忘れてしまうというものではない。人の気持ちは複雑で、その上、人間関係となったら相手もあることで、脆さと強かさの針を大きく振れているのだという気がする。

 黒岩の何を知っている、という訳でもない。ただ、以前よりも目尻の皺が少し深くなったと思う。食事制限や運動をしている訳でもなさそうだが、身体は中年太りをしていない。着るものや持つものに割と拘るほうだ。今期の営業成績はいつもどおりに良いけれど、目標の達成率で言ったら今期の評価も厳しいかもしれない。そこを行くと要領のいい営業マンは目標を少し下げて達成できる範囲内にしているんだからずるいよなー、と次の評価の後でまた黒岩は愚痴ることになるだろう。でも、彼のその真面目さは取り得だと、弓音は思う。誰かが大変そうなときは必ず声をかけるのも彼のいい所だ。女の子に優しいけれど下心がないのもいい。自分が出した書類を出しっぱなしにしてどこにやったか分からなくなるのは彼の悪いところだ。共有の資料だと時折誰かが迷惑を蒙る。それから少し見栄っ張りなところがあるかもしれない。でもそれはこうやって仕事仲間として付き合っている分には特に迷惑ではない。

 この男ともしも結婚していたら、これはまた違う話になる。いつも脱ぎ散らかした靴下を片付けるのはイライラするだろうし、家計の厳しいときに少し良いものにしよう、と言われたら腹立たしいかもしれない。知らない営業マンの愚痴を言われてもピンとこないだろうし、真面目なのは良いけれどボーナスが減るのは困る。

 でも、それなら、自分は夫の何を知っているのだろう。
 そして、航の何を、弓音は知っているのだろう、と考える。

 航の、何を?
 埃くさい部室で泣いていた少女を思い出す。正確に言えば彼女の脳天だ。それは彼女がその間中ずっと俯いて、弓音に脳天を見せていたからだった。それから小さなふっくらした手。頬を押さえて、ハンカチを握り締めていた。彼女は、自分の恋人が放課後のほんの一時間や二時間何かにつけて憎まれ口をきくような相手である自分に、一体何を思ったのだろう。じゃれ合っているようにでも見えたのだろうか。大学生なんて、いっぱしの大人のような気でいたけれど、幼かったと思い出すのはこうやって幾年も年を隔てた後だ。
 ことあるごとに叩く憎まれ口の他に何を知っているのか。今なら、彼女に思うことがあるのに、当時はそんなことすら思いつかなかった自分の幼さを思う。
 航は、どんな風に直美ちゃんの手を握ったのだろうか。
 航は、どんな風に直美ちゃんに口づけたのだろうか。
 航は、どんな風に直美ちゃんを涙をぬぐい、慰めたろうか。
 航と直美ちゃんはどんな風に言い争ったのだろうか。
 そしてまた、航はその後どんな相手と恋をして、愛を知って、どんな風に今の奥さんにプロポーズをしたのだろうか。
 
 その、どれひとつとして、自分には想像もできない。

 「らしくねえの」
 ふいに耳の奥で聞こえたその声は、航だったか?それともいつの恋人だったろう。自分の何を見て…?


 黒岩は、取引先の担当者の意外なギャップの話をひとしきりした後に、最近飼いはじめた室内犬の話を始めた。