「・・・・みお、弓音。」
 眠ってしまったらしかった。腕を揺すられて目を覚ます。
 「こんなとこで寝たら風邪引くよ。遅くなってごめん。メール、したんだけど」
 「あぁ、寝ちゃったんだ。ごめんなさい。ごはん・・・」
 「うん。食べてきたから。俺、風呂入るけど・・・いい?」
 「うん。」

 ゆっくりと身体を起こす。時計はもう12時を回っていた。テーブルの上に乗った携帯電話が着信の履歴を知らせている。夫のメールか電話なのだろう。弓音は手に取った携帯電話の履歴を確認しないまま少し揺れるように寝室へと歩いていった。リビングを出る瞬間、ほんの少しアルコールの匂いがした。夫は飲んできたらしい。

アルコールの匂いに混じったタバコの匂いにふと居酒屋を思った弓音はぼんやりと、また一昔前を思い出す。
 『真面目に作ってる』
 航は美味しいものをそんな風に表現することがあった。「美味い!」と言って味わった後に「真面目に作ってるよな」と、言った。弓音はいつもその表現を面白いなと思っていた。

 初めてその表現を聞いたのは、航の学年が入学した年の新入生歓迎コンパだった。一年生は、出身地や出身高校、所属学部などを自己紹介で順番に言っていく。その時、航が弓音と同じ高校の出身だと知った。航の方はそのことを知っていたのか、高校名を言うときに弓音の方をじっと見た。「へえ」と思う気持ちと「何だ?」と思う気持ちが混在していた不思議な感覚を今でも思い出すことができる。それから雑談が始まって、大きな長いテーブルで人が入れ替わって、航が隣の席になったときに、「私もOO高、出身だよ。」と航に話しかけた。航は目線だけは弓音から離さないままビールジョッキをぐいっと仰ぎ、うんうん、と頷いた。それは「知ってます」という意味だったのか、「そうなんですね」という意味だったのか、今でも知らない。空にしたジョッキを置いて、弓音の前にあった何かに箸をつけて、もぐもぐと食べたあと、「お、これ、旨いッすね。真面目に作ってる」と言って、それから片耳で聞いていたらしい隣の誰かが言った冗談に笑った。屈託のない笑顔は酔っている訳ではなさそうだったが、とても機嫌がよいようだった。

 今、航が作っている弁当はきっと大真面目に作っているのだろう。中庭を見ながら割り箸を動かしていたあの手が、菜ばしを持っている姿を思い浮かべてみる。案外簡単に思い浮かんで、弓音は満足した。
 『水曜日に・・・・』
 『お前に売る弁当はねーけどな』
 『バーカ、バーカ』
 『ゆみさん!』
 航の黄色いケータリングカーが目に浮かぶ。航が弓音を呼んだ声も、くだらない憎まれ口も、全部ごちゃ混ぜになって弓音の眠い頭に響いた。重くなる弓音の瞼に、鼈甲模様のセルフレームの眼鏡をブリッジを中指で押して直して、口の右側をきゅっと持ち上げて笑う航が浮かんだ。それは、先週、ケータリングカーの前で弓音が実際に見た航なのか、それとも記憶の中の航をツギハギして思い出した航なのか、弓音には分からなかったけれど、ただ懐かしかった。そして、手を伸ばせば触れそうに近いのにけして触れない距離がもどかしかった。触れそうで触れないのがもどかしいのは、触れたいからなのだろうか。考え始めた弓音の思考はそれ以上進まない。それでも眠りの淵に深く落ちて行く自分を弓音はちゃんとわかっていた。