弓音を乗せた急行が一つ目の停車駅で停まった。疲れた背中がいくつも急行を降りてホームから階段に吸い込まれて行く。あと二つこの電車が停まったら、自分の背中があんなふうに誰かの目の中で消えていくのだ。自分の背中も、黒岩の背中も、自分の夫の背中もきっと同じように、どこかで誰かの目の中に消えていく。

 『リスクを物ともせずに、ぱっと行動に移せるかどうか。サラリーマンを一生やる人間とそうでない人間』
 黒岩の真っ赤な頬をした横顔が弓音の頭の中で爽やかに笑う。『そういう奴はすげーよな。俺にはできないよ』そんなふうに言うときにも黒岩はけして自分を卑下しているようには見えない。彼は単純にそういう人間とそうでない人間がいる、その事実を受け止めているのだ。諦めている、というのではなく。

 急行がまた走り出して、次第に少なくなった町の灯りはまた次の思い出を灯して弓音の視界から飛び去っていく。弓音の脳裏に浮かぶのは屋根越しにみた半月だ。部室棟の軒のない屋根を半月は渡って行って、少し離れた人文棟の壁を白く照らしていた。

 10年前だ。
 大の字になって廊下に横たわる航の手足の健やかさをつくづくと眺めていて、そして、気づくともう朝になっていた。それは、件の結婚式の二次会の後だった。
 
 結婚式の二次会で酔いつぶれて、何がどうそうなったのだか、ふたりして真夜中、母校の大学へ向かった。鍵の掛かった懐かしい部室のドアをふたりしてガタガタと鳴らして、大きな声で笑った。夜の闇が覆う大学の構内に笑い声が響き渡った。それからどちらかが「警備員」と言って、そうだ、と何か大事な秘密を分け合うように小声で、何を話したのだったろう。どうでもいいようなことを話したのだけれど、そのときにするともなくした、約束以外の事は特にたいした意味もないのだ。
 学祭の話をした。いつだったかの学祭でこんなことがあった、楽しかったというような他愛もない事を、いつものようにお互いに難癖をつけあって、そっとふたりの間に忍び込んだ沈黙の底で、「懐かしいなぁ」と呟いたのは弓音だった。それを拾い上げて航は「今年は何日だろう?」と携帯電話のカレンダーを開いた。きっといついつだ、とふたりで携帯電話の小さな画面に頭を寄せ合って、「この週の週末の三日間のはずだ」とか「来るとしたら土日のどっちかだな」「土曜日は午前中は寝てたい」とか自然とそんなふうに、多分お互いに「一緒に来ようよ」というその一言だけを言葉にせずに、それでもどちらともなしに土曜日の午後に来よう、と伝わった。

 それからもう、話すことは何もなくなって、どちらが先に気づいたのか月が部室棟の屋根の上に登っているのを見ていた。部室の前のコンクリートの廊下に、ごろりと寝転がった航は、まるで部屋の窓から月を見ているような自然さで自分の腕を枕にして月を見ていた。その足元で背中を壁につけて体育座りをした弓音も、ぼんやりと月を眺めていた。そのうちに、航の寝息が聞こえ始めた。航は、いつの間にか自分のジャケットを枕にして大の字になっていた。

 きっとそのまま、朝が訪れるのだろうと思っていたのに弓音は眠ってしまったらしかった。弓音の斜め前に、くの字に身体を曲げて航が眠っていた。航を起こそうか起こすまいか迷って、弓音は自分の身体に掛かっていた航のジャケットに気がついた。くしゃくしゃになったジャケットの中で、弓音はもう戻ることができない青春を思い出して胸が痛くなった。埃の立つ部室の匂い。少年雑誌とファッション雑誌の重なり合った机の上にのったスナック菓子。ほんの一瞬だけ、その頃の空気が弓音を取り巻いた。そして、ほんの数年前のその時間が、明らかにもう戻ることができない過去なのだと思い知った。

 人文棟の建物の端から薄くスライスしたような朝日が差し込んだ時、弓音は航の足首に手をかけて揺らした。どうという想像をしていた訳でもないけれど、航の踝はなんとなく弓音の想像と違う気がした。
 二人きりの三次会が明けた朝だった。