日が落ちるのが早い。
毎日毎日学校に遅くまで残っていると、それを顕著に感じる。
夕焼けのオレンジがゆっくりゆっくり暗くなっていき、太陽が隠れる様子を見ていると、不思議と寂しくなるような、そんな気がした。
「おーい、ほのかさーん」
ここ一ヶ月ほどで聞き慣れた声に思考を切られて、ゆっくり振り返ると、私をじっと見つめる瞳があった。
あーやっぱり。顔だけなら、かっこいい。
「ん?終わった?」
「終わった?じゃないだろ…何もしないつもりかよ」
「優等生様の悠太くん、そういう綺麗事を並べるのは得意なんじゃないの」
ぶーん、と古いエアコンの音が響いて、悠太の微かなため息をかきけした。
「だいたい、高校生にもなって人権学習って…もう人格形成されてると思うな」
「じゃあすっごい残念じゃん。ほのかのその人格も、もう変わらない…つまり救いようがないんだなー」
「うるっさいな、それは悠太でしょ。化けの皮が早くはがれちゃえばいいのに」
一ヶ月ほど前。散々嫌だと私は言ったのに、前に座っているこいつのせいで、人権委員なんて面倒な仕事を引き受けることになってしまった。
先生から人権委員を頼まれた悠太が、一人では無理ですとなぜか私を推薦して、私は断りきれずになってしまったというわけだ。
クラスで話し合うために、調べたりして資料を作れ、というのが、先生の指示だった。悠太と私のふたりで。
部活にも入っていなくて帰宅部のエースのように早く帰ることに全神経を注いでいたので、とにかく放課後に残ることが嫌で嫌で仕方なかった。
それに、今こそ仲良く話せるようにはなったが、悠太とはほとんど接点がなかったためにふたりで残るというのが最初は億劫でもあった。
今でもなぜ私を推薦したのか謎だが、聞いてもアホそうに見えたからぐらいの返事しか返ってこないと容易に予想できるので、聞かないことにする。
「ほんとめんどくさい。帰りたい」
「ほのか何もしてないじゃん」
私に毒を吐いてばかりの悠太だが、いつもはもっと優しいふりをしている。
頭がとっても良くて、バスケ部のキャプテンで、みんなに優しくて、明るい人気者。
それなのに、人権委員を私に頼むときの言葉が「篠崎さん、人権委員押し付けていいよね。だって俺の頼みだし」である。
前フリなしの自己中なお願いを驚きのまま引き受けてしまったが、一ノ瀬悠太という人間をかっこいいと思っていた自分を、深く恨んだものだ。
「最初はもっと王子様だと思ってたの」
「は?どういう意味?」
「こんなに性格が残念だなんて、思わなかった。すぐ貶してくるし自己中だしさ」
「はあ、完璧な人間なんかいないってことだよ、ばーか」
「悠太みたいなのにだまされてる女の子がかわいそうでかわいそうで…」
そう言ってからまた窓の外に視線を移すと、絵の具で塗りつぶすかのように、オレンジ色が藍色に飲み込まれかけているところだった。
「みんな簡単に騙されるんだなー、ちょっと優しくしてるだけで」
「うわ、自覚あるんだね」
「別にそんなつもりなかったっつーの。周りがみーんなほのかみたいなのだったら、こうは行かなかったと思うけどなー」
「ほめてるのか貶してるのかはっきりしてもらいたいな、それ」
「貶してるに決まってるじゃん。ほのかがガサツでバカって言いたいの」
「あのね、私だってはじめは悠太のことかっこいいと思ってたよ。押し付けていいよね、で一気に夢が崩れたの」
「ガサツなほのかにもそんな気持ちがあったんだねえ〜」
澄ました顔でそんなことを言うから更に腹が立って、完全に椅子を窓の方に向けた。
エアコンの唸る音、耳を澄ませば聞こえる部活動の声、電車が走る音。
なんだか、青春だなあと思った。『学校』の音だ。
ゆっくりそれらに耳を傾けていると、悠太が息をつく音が聞こえて、また思考が遮られた。
「やーっと終わった。ほのかがサボるせいで時間かかっちゃったなー」
「はいはい、お疲れさん、王子様〜」
そう言って振り返ると、悠太の眉間には軽く皺が刻まれていた。
さっきあれほど言って怒らなかったのに。
『王子様』は、嫌いなんだろうか。
とても目立つ赤いリュックを背負いながら、悠太が資料を手に取った。
分厚いなあ。こんなの一人でさせちゃったのか…。
「提出はふたりで行くんだから、ほのかも準備して」
「はーい」
かばんを持って立ち上がると、悠太はエアコンをぶつっと切り、ぱちぱちと電気を消した。
暗い教室に静寂が満ちる。
「早くしろよー」
「うるさい、わかってるよ」
どこか寂しい。
「ねえ、今日、最後?」
「そうだな」
「そうかあ」
教室の入り口からまた窓の方を見ると、もうオレンジは見えない。
深い深い藍色に負けてしまったようだった。
「先生の前でだけ優等生なほのかちゃんとふたりで残るのが終わるなんて、本当にせいせいするな」
「…私だって」
廊下に出ると、今度は吹奏楽部の楽器の音が聞こえた。
あんなに静かだった二人の空間を、はっきりとした音が溶かしていく。
どうしてか、嫌だと思った。
「でもちょっと…寂しい」
「…は?」
「いや、別に深い意味はなくって、なんか、こんな遅くまで学校にいることもうないと思うし、空の色とかゆっくり眺めてもいられなくなるのかなーって…」
「空の色…か。俺は見る暇なかったけどね」
「…ごめん」
なにかしっくりこない。
違う、違う、そんなことじゃなくて。
ぼーっと考えていたからか素直に謝ってしまい、異常なほど悠太は驚いていた。
「…別に、周りに先生いないけど?」
「失礼だなあ…媚び売ってばっかじゃないよ」
音楽室から離れたのか二人分の足音だけになった廊下に、私は少し満足した。
階段を下りる音が、ゆっくり響く。
それもここ数日ずっと聞いていたはずなのに、ずっと悠太の横顔を見ていたはずなのに、その上それでうんざりしていたはずなのに…なぜだか突然、こんなのが続いてほしいと思ってしまった。
でも、終わりは来る。
階段を下りてしまえばあの二人の空間には戻れない。作った資料を提出してしまえばあの時間はもう消えてしまう。
でもその終わりに抗う力も、手段すらも、私は持っていなかった。
悠太は、階段を下りたところにいた先生に手早く資料を提出してしまった。あーあ。
「帰るぞー」
「…ん、わかった」
そこから駅まで、何を話したかよく覚えていない。
たぶん、いつも通りくだらない話だったんだろうけど。
ホームを俯いたまま歩いていると、向かいのホームにはもう電車が来ていた。
「ああ、悠太、帰っちゃうんだなあ…」
ふと顔を上げると、偶然見つめた先には…微かに見え隠れする恋しい赤色。
少し悲しさをたたえたように見えた彼の瞳と、私の瞳が、こんなに距離があるのにばちりと合わさって、時間が止まった。
どこからか、ときめく音がした。