「何故高天ヶ原へお戻りにならないのです」

厳しい声で続ける桐川哲。
哲は、初対面とは態度が真逆だった。
しかし心優は気にする様子もなく呑気に手を洗っている。

「水ノ美弥神様ともあろう御方が下界の穢れた水に手を触れるなど・・・命様が御知りになられたらどれ程お嘆き遊ばされるか・・・」
「お前は須佐之男命様の為に私の側にいたの?」

心優の言葉に哲はその先を呑み込んだ。心優は構わず続ける。

「お前は優秀だ。きっと命様の下でもやっていけるだろう。
私から話しておくから、そちらへ行くといい。永い間有り難う」
「み、美弥神様・・・」
「私のことは案じなくていい。ここでの生活も慣れたから」
「あの、」
「命様にはてきとうに申し上げておいて。ではまた会えたら会おう」
「ちが、」

伸ばした手をヒラリとかわし、心優は哲を置いて去ろうとする。
しかし哲も負けてはいない。
再び手を伸ばすと、今度はしっかりと心優の腕を掴んだ。

「・・・御無礼を御許しください」
「構わないが、まだ何かあるの?」
「あの・・・美弥神様・・・。申し訳ありません。
真っ先に貴女の身を案ずるべきなのは理解していましたが・・・その、」
「よい。我々は皆天照大神様と須佐之男命様の子。私より優先すべき御方だから」
「そんなことは!私はいつだって貴女様を!」
「・・・・・はぁ」

根負けしたのか、心優は深い溜め息をついた。
哲への声音を柔らかい物に変える。

「すまないね。少し意地悪をした。
わかっているよ。お前は、高天ヶ原での私の立場を案じてくれたのだろう?」
「美弥神様・・・」

哲は歯を食いしばった。
心優の腕から手を離す。
そして、自身の手が許せないかのように、きつく握った。

「どうしてお戻りにならなかったのです?」

神というのは通常住む場所が二つに別れている。
天照大神も御座す高天ヶ原。そしてかつて伊耶那美命、伊邪那岐命が御座した下界。
かつて二人は高天ヶ原にいた。
そして、高位の神に命じられたのではない天下りというのは、これ以上無い程不名誉なこととされていた。
自ら劣った存在になるということだったからだ。

「お前もそうだろうが、我々の魂は今、人のそれ並に堕ちている。
この状態ではとても受け入れて貰えないよ」

心優と哲は、正にその状況だった。
故意では無いとは言え、高天ヶ原から下り、輪廻に組み込まれ気付いたら人になっていたのだ。
通常考えられない恐ろしいことだった。
そして高天ヶ原は清い物を好む。
人の魂等は穢れた物に違いなかった。
それをわかりつつも、哲は、嘗ての高天ヶ原での日々を思い返してしまう。

「しかし、人が神と成った例も御座います。ましてや美弥神様は命様から名を頂いた由緒正しき御神です。
昔のようには成らぬとも、お戻りになることは・・・」
「では玉ノ前。お前はどうして戻らなかった?」

哲が答えられずにいると、心優は頷く。

「お前と同じ理由だよ。
私は、お前達4神が揃わない限り戻るつもりはない」

トイレから出る心優。
体育館の側にあるというだけで、このトイレは人気が皆無だった。
今は幸いだ・・・生徒会長の哲が女子トイレから出てきたとあっては、大問題になる。

「あの者達は私にお任せください。
どうか貴女様だけでも」
「それは嫌だ」

きっぱりと、清々しく言い放つ心優。
その勢いに唖然とした哲は、しかし、気を持ち直して問う。

「な、何故!?」

神ともあろう存在が下界に留まる理由・・・哲には考えつかない。

「いや、大した理由ではないけど・・・こちらでのお前達の姿を是非見てみたい」

そう言うと、心優は哲をしげしげと眺めた。

「あちらでの姿とは似ても似つかない。けれど、女にとても人気があるようじゃないか。玉ノ前」
「人から人気を集めて楽しい訳がないでしょう。バレンタインとやらには、穢れし物を更に食べなければならなくなるのです」

そう言って不満げな哲。
心優は小さく笑った。

「チョコだろう?私は好きだよ。こちらの食べ物」
「なっ・・・美弥神様!?」
「今は人だよ。桐川哲」

心優の後を追いながら、哲は問い詰める。

「人だとして・・・貴方は高貴な御神でもあるのですよ!」
「魂の一部だけだよ」
「そんな、」
「それと」

哲の言葉を遮り、心優は振り返る。

「今は先輩、後輩。態度を改めなくてはならないですね、桐川先輩」