そういう土地だからか、ノーザンプトン伯ウィリアムは、ブルターニュ北岸に侵攻し、ラ・ロッシュ=デリアン La Roche-Derrien で、ブルトン人とフランス人の連合軍を率いたシャルル・ド・ブロワと戦うことになったのだった。
 
 1347年6月18日、カンペールより北部のラ・ロッシュ=デリアン救助を目的としたイングランド軍隊長、トーマス・ダグワースは、装甲兵300と弓兵400だけで、シャルル・ド・ブロワ率いる軍と対峙した。
 むこうは、装甲兵1800、弓兵600、クロスボウ2000であった。
 数で見る限り、いくらイングランドの弓兵が優秀でもかなうわけがない程の差であった。
 しかも、ブロワは深い森の奥に本陣を置き、そこに濠や柵を造っていたのだった。
 仕方がないので、イングランドの隊長、トーマス・ダグワースは、その森を抜けて夜襲をかけることにした。
 とはいえ、夜の森をあまり光の無い中進んでいくのは非常に危険なことであった。
 それでも、唯一の勝ち目がそこに無いと思ったダグワースは、それを決行した。
 丸一晩かけ、傷だらけになりながらもブロワの本陣に着くと、そこでは「夜襲なんか仕掛けてくるわけがない」とたかをくくった兵士達がまだ眠りについており、混乱したのだった。
 一方のダグワース隊の方は、森を抜ける間に同士討ちを避ける為の合言葉を決めていたので、混乱しなかった。
 が、人数も多かったブロワ隊の方は、かなり同士討ちをしてしまったようである。
 後に、ダグワースが本国、イングランドに送った報告書(Clifford J.Roger編 "The Wars of EdwardⅢ BOYDEL1999")によるとラバル卿、シャトーブリアン卿等多くの騎士や600~700の装甲兵の従者と民兵を殺し、シャルル・ド・ブロワ、ガイ・デ・ラヘルなどを捕えた、と書いている。
 この際、ブロワは包囲された市民とも敵勢力とも交渉することを拒否し、ダンギー・デュ・シャステルの介入したお蔭で処刑を免れていた。
 実は、そのダンギーの息子は、ブレストの壁の下で殺害されていた、という逸話がある。
 いずれにしても、彼が捕らわれ、ロンドン塔に幽閉されたことで、モンフォール派もブロワ派も、当事者がいなくなってしまったのだった。