空いていた日壁のベンチに座って、葵は膝の上にスケッチブックを広げた。
俺から受け取った色鉛筆で、さっそく描き始めてしまう。

「ちょ、鉛筆からじゃなくていいのか?消せないぞ、間違えても」
「大丈夫」



大丈夫、と呟いた葵の横顔はもう真剣そのもので、なんのためらいも見せずに大きな白い紙に色をのせていく。
その集中力はすさまじく、俺は葵の邪魔をしないように、持ってきていた文庫本を開いた。



読み始めて40ページ。太陽が天辺にやってきた。



俺の脚元にピンクのスニーカーを履いた小さな足が現れたので、ふと顔をあげると、葵の絵を小さな女の子が覗き込んでいた。
どこかで見たことがある気がするなあと思ったら、サトに疑惑を抱いたあの夜に駅で会った「りなちゃん」だった。


俺がびっくりして口もきけないでいると、りなちゃんが、「お姉ちゃん、絵、じょうずだねえ!」と言った。葵は初めて目の前にいた女の子に気づいたのか、びくっとして顔をあげたあと、「ありがとう」と笑う。りなちゃんの声に、りなちゃんの両親も寄ってきて、葵のスケッチブックを覗き込んだ。



「まあ、素敵な絵!」
「本当に上手だなあ」

りなちゃんのお母さんとお父さんは口々にその絵を褒めた後、うちの子がお邪魔してごめんなさいね、と葵に笑いかけた。葵はふるふると首を振った後、そんなことないです、と笑った。





葵の人見知りもだいぶ治ってきたんだなあと思って本に目を戻そうとしたら、りなちゃんが今度は俺を見つめていた。


「お兄ちゃんっ」
「え!」


まさか、とは思ったけど、どうやら俺を覚えていたらしい。
りなちゃんは「わぁーお兄ちゃんだー」とはしゃいだような声をあげて、こんにちは!と元気にあいさつしてきた。




「あら、こんにちは」

りなちゃんのお母さんは愛想良く俺に微笑む。

「あ、えっと、こんちは」


大きなつながりがあるわけでもない人にあいさつをされたりしたりって、不思議な感じがする。
でも、嫌じゃない。



ああ、俺ってやっぱり、人間が好きなんだ。