凍えるような冬の朝の空気に、体が無意識のうちに震えて、身を縮こまらせながら、小さな籠を抱えて早足で畑へと向かう。
 山の向こうにうっすらと太陽の気配を感じる程度の空を見て、今日の暦を数える。星はまだはっきりと見えている。もうすぐ年の暮れになりそうだ。
 左右を階段のように連なる畑や庭が立ち並ぶ街並みを、早足で駆ける。細い道を風が鋭く通り過ぎていくのを頬で感じて、皮膚は今にも切れそうなほどぱりぱりとしているかのように痛みが走る。
 連なる階段の合間をどんどん上に駆け上っていけば、やがて家は姿を消し、階段状になった畑のみが広がるところに出る。小高い丘のようになったそこからは、町全体が階段状になりぽつぽつと石造りの家が点在する隙間を縫うように、左右を石壁に囲まれた小道がまるで迷路のように走っている様子が一望できる。
 走って火照る体と空気の冷たさを心地よく感じながら、アーニャは息を吸い込んだ。つかの間、喉に痛みが走るが、それは体温の上がりきった体をほどよく冷ました。
 ぽつり、と一つの家に灯りがともったのを見て、慌てて体を捻って坂を上る。坂の左右に春や夏とは違い閑散とした畑が並ぶ中、まるで荒れ果てた土地のような一角がある。そこが、アーニャの師匠の薬草畑だった。大きな石を積んで盛り立てた畑のうちの一つによじ登るようにして上がりながら、そこに敷き詰められた土に足を下ろす。
 低地の薬草畑であれば、種や胞子が飛ぶことを恐れて他の野菜畑より高いところに作ることは許されないはずだった。しかし、より乾燥した寒い土地に咲く花や植物を求めるには、少しでもいい条件を欲した師匠が長年の信頼と財産と、何か起きたときの陳謝料を犠牲にしてここに土地を得たのである。
 アーニャは土に足をとられながら、他の草を踏まないように気を付けて奥に進む。進みながら、時にかがんで草や小さな花を摘んでいく。籠は小さいが、草花も小さく、一杯になるころには山の端が金色に光っていた。
 アーニャは空を見て、消えかかった星をさっと見てからもと来た道を駆け下りて行った。


 家に戻ると師匠は既に起きていた。昨日遅くまで本を読んでいたようだったから、今日は遅くなるだろうと踏んでいたが外れたようだ。
 アーニャが家に帰るなり、師匠は「ご苦労」と言ったきり黙り込んでしまった。暖炉に火をくべてまだ時間が経っていないようだ。冬の初めに「年々寒さが骨に染みるようになってきた」と嘆いていたのを思い出す。一体幾つなのかは知らないがどうやら寒がりなのは事実なようで、今日も服を着込んだうえに冬の外套までも肩にかけ、暖炉の前にじっと座り込んで火がぱちぱちと爆ぜるのを見つめている。
 アーニャは薬草を棚に置き、テーブルの本を片づけて朝食の準備に取り掛かる。幸い火の準備は済んでいたので、野菜くずのスープと黒パンの朝食はすぐに出来上がった。師弟ともに無言で卓につき慌てたように食べ、食後に木の実と砂糖、小麦粉を植物油で固めた茶菓子を出したところで師匠が茶をすすりながら言った。
「今日の星はどうだった」
 アーニャは思い出すように目線を宙にやる。日の出前と後との様子を頭の中で比べた。
「吉兆です」
「そうか」
 端的な答えにいつもは質問を重ねる師匠は、今日ばかりは上の空のように返した。そしてややあって、
「薬草を見よう」
 と呟くように言った。

 茶菓子が済んでから、古紙を敷いたテーブルに薬草を並べていく。アーニャが一つ並べるたびに、師匠はうーんと唸ったり頷いたり首を傾げたりと小さな反応を見せる。そして一つ一つに短い質問を寄せた。
「なぜこれを取ってきた?」
「咳止めの葉っぱに似てると思ったんです。でも、この時期には珍しいから、もしかしたら毒消しの葉なんじゃないかと…」
「ではこれは」
「これは、粉にしたアルカブラの根と混ぜたら解熱できると思って」
「この薬草は何に使うんだ」
「これは、甘い香りがするので、薬もいい匂いにできるかと思って…」
 師匠は答えも何も言わないままに問いだけを繰り返し続けた。一通り終えると、薬草を古紙の上で三つに選り分けた。一番多い薬草の山から次に多いもの、最も少ないものと順に指さしていく。
「これは正解、これは面白い、これは不正解」
 そして不正解と正解の薬草の束をこちらに押しやりながら、不正解のものの使い道を考えてくること、とだけ言った。
「面白い草の中にも毒はある。後で教えよう。そしてもっと歯切れよく答えなさい、ほとんど正解だよ」
 面白いものに分類したものたちを選り分けながら、師匠はどこか楽しそうに口の端を上げていた。

 朝食が済んで、鳥の餌やりや水汲み、大まかな掃除をいつもと同じ手順で終えてからは、干してあった薬草の選り分け作業に取り掛かる。その合間、休憩を兼ねて不正解通知を出された草を並べて一つ一つ本の記述と照らし合わせていく。薬草時点で思い当たるものをかたっぱしから調べながら作業をしているうちに、太陽が昼をさそうとしているのに気づく。慌てて昼食の準備に取り掛かる。師匠が空腹を訴えかけてこないということは、本を読んでいるか研究にあたっているのだろう。一度机に向かうと、肩こりがひどくなるか夜になって寒くなるまで師匠はその場を離れない。来客対応、薬草の育成、選定と配合など、薬師としての仕事はほとんどすべてアーニャが担うとともに、家畜や野菜の世話、近所づきあいや家事、買い物や炊事なども全てまかなっていた。師匠はというと、一日中本や机に向き合い読み書きをしているか、時折ふっと姿を消してはどこからか資金を得てきていた。また、その合間を縫ってアーニャに薬草の知識を教えてくれた。
 そして、これは明かしてはならないと言われているが、薬草以外にも魔術の本を読むことを許してくれていた。
 この国では魔術師はある程度の地位を約束されているため、詳細な魔術書が一般に出回ることはない。その地位を脅かすことは許されないのである。
 しかし、師匠の手元にある魔術書は、一般に広まっている魔術の知識をゆうに超えていた。アーニャは詳しくは知らないが、魔術書の専門書や研究書はこのような類のものを指しているのだと思う。師匠が手ずからそれらの書物を繙き魔術を教えてくれることはなかったものの、薬草関係の書物と一緒になっているそれらを見ることを師匠は禁じていなかったし、会話の端々に魔術に通ずることを織り交ぜている節を感じることは度々あった。そして、師匠のもとに茶や茶菓子を運ぶときや用事があって研究中に声を掛ける際、師匠が魔術書のようなものを執筆していると思われる場面に出くわすことは度々あった。
 師匠は折に触れて、それを隠すようにと言ってきた。アーニャはそれを話す相手もいなかったため、指示に背くまでもなかった。
 アーニャはただただ、師匠との生活を維持させるためだけに、この穏やかな日々を必死に守ってきた。
 そして何より、薬草や魔術について学び、薬を作り、人の助けになることは楽しかった。どれだけ吸収しても、どれだけ質問をぶつけても計り知れない膨大な師匠の知識と書物に著された知識の数々に、息をする間もなく惹かれていった。
 だからこそ、その研究に没頭する師匠に、まれに不満を抱くこともあったものの尊敬の念を欠くことはなかった。

 朝食とさして変わらない昼食を作り終え、不正解の薬草の解答をさっと紙の切れ端にまとめてから師匠の部屋を訪れる。案の定師匠は文机に向かっていた。壁一面に打ち付けられた本棚には、無造作かつ計算された配置で書物が詰められるようにして並べてある。文机の周りはもとより、寝台の上まで書物や紙が散乱しており、アーニャは人知れずため息を吐いた。この部屋の掃除は手を付けることを許されていないのだ。しかし、大事なメモをなくして家中を探し回る師匠の手伝いをすることもたびたびあり、そのことを想像してうんざりする気持ちになった。

「師匠、昼食ができています…」

 呼びかけて、書き物をしている師匠が文机にうつ伏せになって寝ていることに気付いた。やはり昨夜遅くまで起きていたのがここにきて響いたのだろう、と考えて、もしかしたら朝まで寝なかったのかもしれないと思い当たった。そして、師匠は朝、アーニャが出る時間にはできる限り起きてきてその帰りを暖炉の前で待つようにしようとしていることを知っている。調べものや書き物をしているうちに朝になり、そのままアーニャの帰りを待っていたのだろう。考えが煮詰まった時には火を見ていると考えがまとまることがある、と言っていたこともある。それもあながち嘘ではないのかもしれない。
 アーニャは椅子のそばに落ちていた師匠の外套を拾い上げ、肩に掛けながら文机を覗き込んだ。魔法陣とその解説が書かれた紙が師匠の下敷きになっているのを見つけ、どうにか師匠の頭を持ち上げながら、破いてしまわないようにその紙を引っ張り出した。涎が垂れることは目に見えているのだ。
 魔法陣は面白い。
 アーニャはその、何度か描き直されたであろう緻密な魔法陣を見つめた。
 何の知識もない人間が見れば、ただの幾何学模様に見えるであろうそれは、実は巧妙に計算された術式だ。
 これまで多くの魔法陣を本で目にしてきたが、簡易なものから緻密なものまで様々だ。師匠が書くものはどれも精緻で、その数式を読み解くのに数日かかることもある。意欲的に教えてくれるわけではないが、こっそりと読み解いたそれを紙に書いて手渡したり、食事の際に質問したりすると、師匠はどこか嬉しそうに時間を忘れて講義をしてくれる。
 アーニャはその時間が好きだった。
 生きるための薬草の知識も大切だが、師匠が大切にしているであろう魔術の知識をこっそりと、誰にも知られることなく教わる時間。その緻密にして高度な計算式を解いたり講義を聞いたりする時間。師匠の質問はいつも鋭く、厳しかったが、それに応えようとする姿勢をいつも褒めてくれた。

「ああ、すまんな。昼食か」

 はっとして慌てて紙を文机に戻しながら師匠を見ると、わずかに顔を上げた顔の、髪の隙間から眠たげな眼が見えた。

「いや、別に見ていてもいい。後で見てもいいぞ。すぐに食べるから準備してくれるか」
「はい、すぐに出します」

 悪いことをしたわけでもないのになんとなくばつが悪くなり、アーニャは慌てて炊事場へと戻った。