頭痛が痛い。
間違った、頭が痛い。
もはや紗江の口には引きつけしか起こらなくなり、隣のマスターも同じようにポカンと小説家を見ている。
「この人は知的で良いわ」、なんて思うんじゃなかった!
気を利かせて紅茶なんて奢るんじゃなかった!
何が「恋人ごっこをしよう」だ!
何を言っているんだこのオヤジは!!
…という叫びをゴックリと確実に胃の中へ飲み込み、紗江は笑顔を無理やり作る。
「…ええと、飯村様?当店ではそのようなサービスを行ってはおりませんので」
「うん。だからサービスじゃなくて、取材の申し込みなんだが」
「ですからそういう…」
「あのー…飯村様」
ここでいよいよ、マスターがしゃしゃり出る。
行け!マスター!この30代のとんちんかん男に言ってやれ!
「営業時間外で、私も立ち会いで良ければ話くらいなら……いてっ!」
思っていない援護射撃に、マスターの腹へ紗江の肘が飛ぶ。
「マスター、どっちの味方なんですか!」
「うーん、でも小説の参考になるならいいじゃない?」
「そうじゃなくて!私、一ヶ月恋人ごっこしろって言われてるんですよ!?」
立派な口髭に似合わず、マスターはエヘヘと淡い笑顔を零す。
「それはまあ…そうだけどさあ…でも何をしようと一ヶ月過ぎれば良いんでしょ?
だったらここで一ヶ月時間を過ごせばいいじゃない、ね?」
「…いえ、あの…ですからそれはそれで…見ず知らずの人間に」
「見ず知らずじゃないよー、常連さんだよ」
ひそひそ声にもなっていない飯村の目の前での言い争いに、彼もまた動じた様子はなかった。
「そうだね、じゃあとりあえず手付金で」
骨々しい手が、紗江の手中へ何かを握らせた。
カサリとした分厚い感触に、それが5万円だと知ったのはすぐだった。
「こっ、こんなの頂けません!」
「人生はいつだってギブアンドテイクだからねえ。
まあ、今日の紅茶代と、お嬢さんの気遣いに感激した僕の気持ちと思ってくれないか」
返そうとする私の手をヒラリと交わし、彼はクスクスと楽しそうに笑い、颯爽と喫茶店のドアベルを鳴らした。
「良い返事を待っているよ、お嬢さん。じゃあまたね」
彼と入れ違いに入り込んだ雨上がりの匂いは、茫然とした二人とは真逆に、実にさわやかなものだった。
内海紗江、28歳。
前途はまさに多難である。