パンケーキ店を出る頃、外は既に夕暮れ時を迎えていた。
飯村がパンケーキのクリームに長々と苦しんでいたからだ。
「あー、もう塩でもいいから舐めたい」
店を出るなり、飯村がぼやいた。
大量のクリームはよほど彼の胃に堪えたらしい。
「…まあ、私も初めて食べたので、良い経験になりました」
実を言うと紗江も彼と同じように「ラーメンでも食べたい」と思っていたのだが、
そこは敢えて億尾にも出さずに気丈な答えを返したのだった。
「ああ、そうなの?てっきり女子は通過儀礼みたいに全員食べてるものかと」
「そんなわけないじゃないですか、ふふ」
蜂蜜色の夕暮れに、飯村の薄い髪色が綺麗に映える。
光のせいか、少し目尻に浮かんだ皺が一層目に映った。
彼の軽い口調のせいなのか
それとも、淡い色の髪色のせいか
喫茶店で感じていた「教授」の雰囲気より、今は随分と柔らかく感じる。
「さて、じゃあ今日はもう帰ろうか。お嬢さんの最寄り駅はどこ?」
いきなりの撤収宣言に、紗江は隣の男を見上げた。
視線に気づいた飯村が、悪戯に口端を上げる。
「ん、なに?おじさんともっと一緒にいたいの?」
「帰ります!」
「なんだぁ、つれないなぁ~」
飯村は彼女の強い口調を軽く笑った。
一緒にいたい、なんて恋する乙女のような甘ったるい欲ではない。
素の彼に知的好奇心が沸いたと紗江が言ったら、飯村はどう返すだろうか。
困るだろうか?
…いや、彼のことだ。きっと曖昧に笑うだけだろう。
それから飯村は自身の宣言通り、彼女の最寄り駅までついてきてくれることになった。
ラッシュより少し外れた時間のおかげで、苦しい思いもせずに電車へ乗りこむ。
「わざわざここまでありがとうございました」
「いーえ」
飯村はニコニコと軽い笑顔を紗江に向ける。
二人とも、吊革に掴まったまま。
新製品のアイスクリームの広告をぼんやりと見ていた彼は、1駅過ぎた辺りで言う。
「お嬢さん。僕との恋人ごっこ、まだ続けてくれる?」
紗江はほんの少しだけ沈黙を挟んだ。
そして
「…いいですよ。ただし契約違反があったらすぐに辞めます」
今日一日で彼の柔らかい雰囲気にほだされたのか。
それとも
「契約違反?例えば?」
もっとこの男の人を知りたくなったのか。
「た、例えば…」
そのどちらなのか、今の紗江には分からない。
「安心しなさいな。別にお嬢さんが嫌がることはしないから」
電車は緩やかにホームへと滑りこんでいく。
曖昧な返事のまま、返答に困る紗江は早々と電車を降りた。
「あ。あとね、お嬢さん」
「はい?」
彼女が振り返る。
飯村の声が、プラットホームのアナウンスに重なった。
「君、笑った方がずっと可愛いから笑顔の方がいいよ」
じゃあね、と手をヒラヒラ振る飯村の笑顔が、電車のドアで遮られた。
口を開けたままの紗江を置き去りにして、電車は再びホームを発つ。
「………」
こそばゆくなった気がした片耳は、あの時飯村に囁かれた方の耳。
何度耳を擦っても、それは少しも良くならなかった。
自称小説家との恋人ごっこ終了まで、あと28日。

