勿論、一瀬さんに対する気持ちが雪さんに残ってるのはなんとなくわかる。
だからこそ余計に、雪さんは一瀬さんがこの店を捨てないことにあんなに苛立ったのだと思う。
だけど、まさか『誘惑』が会社絡みのことだと欠片も思い浮かばなかった自分が、恋愛ごとにしか興味がない子供のように思えて恥ずかしかった。
「彼女が紛らわしい言い方をするからですけどね」
「いえ……私も、そういう冗談が通じないというか」
すみません、とますます赤くなる顔を伏せた。
確かに彼女はあの時、冗談めかして話をしていた。
その時に、少しくらい察することもできたかもしれないのに。
こつこつ、と歩く気配がして顔を上げると、一瀬さんがカウンターの中から出て私の座る客席側へと回ってきた。
一つスツールを開けて、彼はカウンターには背を向けて店内を見渡せるように逆向きに座る。
「どこにも行きませんし、この店を誰かに任せるつもりもありません」
店内を見渡す一瀬さんの目は優しく慈しむようで、暖かい。
この店が大切なのだと、瞳が語っていた。

