このようなことにならなければ、今日の今頃は計画から言うと、散歩から帰って、家で生物の勉強をしている時間帯であった。
美沙は何もすることがなく、病室の窓の外を眺めていた。
多くの住宅からも、小さな雑居ビルからも明かりが零れていた。この景色が美しいとは美沙には思えなかった。贅沢だなと思った。
しかし何とも言えない懐かしさが体の芯から込み上げてきて、美沙の目頭を熱くさせた。美沙は病院からこの景色を眺めたことはなかったが、この街の美沙にとってのメルクマークを見つけるたびに、自分がその土地に立って、どのようなことをして、その時にどのようなことを感じたのかが鮮明に蘇ってくる。
リニューアルして外装が美しくなった駅には、まだ多くの人が出入りしていた。その人々の流れを肉眼で美沙は確認することはできなかったが、駅前の活発さを感じ取ることはできた。記憶のあるうちから駅が新しくなるということは知っており、新駅のビルが着工がすでに始まっていたということを美沙は思い出していた。この街に暮らす人々に思いを馳せた。「あなたたちは幸せですか」と。
美沙が夢中になっているために、気が付かなかったが、見回りの看護師が病室の中に入っていた。
「川上さん眠れないですか」の言葉で美沙はようやく看護師の存在に気が付き、急いでカーテンを閉めた。
「はい」と答えて、そのまま立っているわけにもいかずに、美沙はベッドに戻っていった。
「吐き気はないですか。」とベッドに仕方なく寝ころんだ美沙に看護師は優しく布団をかけた。まだそれほど美沙と歳の離れていないであろうその看護師に美沙は親近感を抱いた。
「大丈夫です。」
「もし、なにかあったら呼んでくださいね」
そういって、部屋を立ち去ろうとする看護師とすぐ離れるのがなんだか名残惜しく、美沙は話しかけた。
「すぐ、退院できますか」
「できると思いますよ。早ければ明日にでも。」
「私の記憶は戻りますか?」
「明確な治療はないですが、脳に損傷はないので、徐々に戻っていくと思いますよ。」看護師はにっこりと笑った。