途中で席を立つことがマナー違反である事は充分に分かっていたけれど、私は吐き気の限界を迎えハンカチで口元を押さえると、誰かに声を掛けられる隙も与えないように会場を出た。
ママや先生はもちろんとても驚いた表情を見せたけれど、私の様子が尋常じゃなかったのが分かったのか呼び止められる事はなかった。
私は小走りでトイレに駆け込んだ。
もう演奏が始まっているからか、トイレには他に誰も居なかった。
トイレに駆け込むと、私は胃の中身が空っぽになってしまったんじゃないかってくらい勢いよく嘔吐した。
あの男の声が、微かに耳に聴こえてくる気がした。
私は衣装が汚れるのも構わずに、その場にへたり込んだ。
ダメだ。
こんなんじゃ絶対に演奏なんか出来る訳がない。
指先はずっと震えが止まらないし、足元すらおぼつかない。
だけれどずっとその場に座り込んでいる訳にもいかないので、私はゆっくり立ち上がるとトイレを出た。
ふらつきながら鏡の前で口をゆすぎ自分の姿を確認すると、顔色は驚くほど悪いけれど幼い頃の面影はメイクのおかげで全くない。
大丈夫。
大丈夫。
私は自分にそう言い聞かせた。
毎年の発表会で、私は月島アンナと呼ばれる。
だから、きっとあの男は私がかなうだとは気がついてないはずだ。

