帰宅すると、玄関に時枝家の物ではないハイヒールがあった。しかしそのハイヒールには充分、見覚えがある。

 祥多のピアニストとしてのマネージメントをしている原田留衣の物だ。


 こんな時にと、奏多は内心舌打ちする。


 祥花と奏多は留衣の事を良く思っていない。

 当然のように我が物顔で時枝家に乱入して来る者を快く思えるはずがない。ましてや、父親に好意を抱き、隙あらば口説くような女性の事を。


「いい加減にしてくれよ!」


 リビングに近づくと、祥多の怒鳴り声が聴こえて来た。ピタリと二人の足が止まる。


「その日がどういう日が知ってるだろ?! 何で違う日にしてくれなかった!」

「仕事なのよ、これは。私情を挟むなんて」

「……花音が死んだ日、俺はどこにいたよ? アイツが苦しんでる時、俺は他人の為にピアノ弾いてたんだよっ!!」

「それが貴方の仕事じゃない!」

「俺はその日だけは、アイツの……花音の為にピアノを弾くって決めたんだ…!!」


 祥多の泣きそうな声が、二人の耳に届いた。

 あまりにも悲痛な声に、奏多はグッと拳を握る。祥花は奏多の学ランの裾を掴んでいた。


「頼むから、その日だけは…っ」

「時枝君……」


 話は終盤を迎えたらしく、静かになったリビングに奏多は入って行く。奏多の学ランの裾を掴んでいた祥花も、引きずられるようにして入った。


「ただいま」


 奏多は何事もなかったかのように椅子を引き、カバンを置く。それから祥花の方へ振り返り、尋ねた。


「何飲む?」

「ぁ……オレンジ」


 祥花の答えを訊くと、奏多はキッチンに入って行く。


 祥多はぎこちない二人を見て、深く溜め息を吐いた。


「聞いてたのか。悪いな、二人とも」


 父の言葉に反応し、祥花はしきりに首を振る。


「お父さん。お母さん、怒ってなかったよ。ピアノ弾いてる祥ちゃんが好きだって言ってた。だから……」

「サヤ。ごめんな? ありがとう」


 祥多は哀しそうに、それでも優しく笑った。