一番信じなきゃいけない人間を、見誤った。
 だがそれは、今更彩香がどうこう言う事でもない。
 誰にでもある話だ。
 その時、彩香の背中にふわりといい香りが漂った。
 女が、後ろから彩香を抱き締める。


「ありがとう・・・」
「何だよ」
「今更、どうにもならないのは分かってる。あたしはもう存在しない人間なの」


 それは違う、と、彩香は思う。
 この女はいつも傍にいた。
 彩香が最初にこの街に来たときから、ずっと。


「何言ってんだよ」


 肩に回されたその細い腕に自分の手を添えて、彩香は言った。


「何度も助けてくれたじゃねぇか。クラブ“パシフィック”の時も、今も」
「うん。だって隼人が、あなたのこと・・・気になってたみたいたがら」


 くっくっ、と彩香は喉の奥で笑って。


「嫉妬かよ」
「そうね・・・でも、あなたの事も、最初から気になってた」


 彩香にはもう、分かっている。
 今、自分の背中に感じる温もりは確かに、生身の人間だ。
 だがそれは・・・ドアを抜けたこの世界でしか、存在し得ない者。
 だから彩香たちが生きる現実世界では、この女は、まやかしのように色々な人間に姿を変える。


「みんな、あんたを待ってる」


 風間が。
 雛子が、峯口が、ジョージが。
 そして、奇跡の歌声を望む全ての人々が。
 それを言ったら、女は、彩香を抱き締める両腕に少し、力を込めた。


「それを言うなら、あなたも同じよ。この街からあなたが消えたらーーみんな、悲しむわ」
「そんな事ねぇよ。あたしは元々この街には居なかった人間だ」
「いいえ・・・それは、あなたが見えてないものを見ようとしないだけ」


 だからそれは。
 そう言おうとしたが、何故か言葉は口から紡ぎ出される事はなかった。
 もう、どうしようもないのだ。
 この女にも、自分にも。
 どうにもならないもの。
 それが分かっているのか、女ももう、何も言わなかった。


「とにかく、もう行くよ」


 女の腕をそっと振り解き、歩き出そうとした彩香の手の中に、何かが握らされた。
 彩香はそれを見つめる。


「それ、渡してくれる?」
「・・・分かった。だけど約束は出来ねぇよ」


 彩香はそれをポケットにしまうと、ゆっくりと歩き出した。
 少し行った所で振り返ると、真っ赤なドレスを着た女の姿は、もうそこにはなかった。