「だけど・・・」


 彩香は、爪が食い込むほどに、両手の拳を握り締めて。


「そんな簡単なもんじゃねぇんだよ。アイツらはな、目標になる場所にあたしをスパイとして潜り込ませているだけなんだ・・・薬を使って、それまでの記憶を消してーーそしたら、ボロが出る確率も段違いに減るからな・・・」


 仕事が終わればまた薬を飲まされて、目標に関わった事を忘れさせる。
 そうすれば、余計な精神的ストレスもなく、また新しい目標にスパイを投入出来るのだ。


「彩香さん・・・」


 佐久間は、申しわけなさそうに彩香を呼んだ。


「済まない・・・私には、何も出来ない・・・医者として、あなたに何をアドバイスしていいのか、分からない・・・だけど、これだけは言ってやれる。私はあなたを、峯口彩香として記憶に残す・・・そして、この街であなたに関わった全ての人達も、あなたを、峯口彩香だと認識している筈」
「・・・・・」
「だから・・・だからあなたは、峯口彩香でいいんです・・・」


 それだけ言うと、佐久間は目を閉じた。
 少女は声にならない嗚咽を喉から漏らし続けている。
 彩香は目をこすると、立ち上がった。


「お前は取り敢えず、本当の世界に戻れよ。“AGORA”っていう店が入っているマンションの非常階段を登って、屋上のドアから帰るんだ」


 涙を拭いもせずに、少女は彩香を見上げた。


「お前は帰って、そしてちゃんと前を向いて生きていく。あたしはーー」


 彩香は、病室のドアに向かう。


「あたしは、この件が片付いたら消える。もう二度と会う事はねぇな」


 そう言うと、彩香は少女の視界から姿を消した。