ここは、井楼(せいろう)記念総合病院。地域の一次診療から三次救急までを担う大規模な個人病院だ。事故や急病で命の危機にさらされた人々の命を救う最後の砦でもある。私、三嶋佐和はそのときまだ看護大学を卒業して2年目の看護師だった。1年目の終わりに突然の部署異動で救急救命センターへ配属され、3ヶ月が経っていた。ほぼ毎日繰り返される、搬入・検査・診察そして帰宅か入院で終わる業務にうんざりしながら、看護はどこにあるのかを見失いそうになっていた。
「牧野先輩、仕事楽しいですか?」
「どういう意味。」
牧野ゆかりは、10歳年上の私の教育係だ。東京の大病院でICUや役職経験のあるベテランだと聞いた。なぜこんな田舎で平社員として仕事をしているか誰も知らない。興味はあっても、どことなく聞けない雰囲気だった。
「よく分からない患者を、一瞬看てよその部署へ引き渡すだけの何が楽しいんですか。採血や注射するだけが看護じゃないと思います。」
「三嶋はそう思う?」
「思います。3Eで創処置とかドレーンの管理してる方がやりがいがありました。」
この病院では花形と言われている東3病棟(俗に3Eと呼ばれる)は、心臓外科と呼吸器外科、第一外科(肝胆膵)の術後を扱うリカバリーをメインとしたHCUだ。脳外科や循環器内科がICUを贔屓にしているのに対し、外科の医師からはほとんど信頼されていないのがICUの実情だった。どこの病院にも派閥はある。規模が大きくなればなるほど、それは顕著に暗黙の了解となってくる。
「三嶋が3Eで何を学んだか?」
牧野さんが、在庫チェックをしながら話し始めた。
「検査の内容もスピッツの種類も検体の取り扱いも分からない。採血も血管確保もままならない。チェストドレーンの管理ができても水封の原理は知らない。ジェネレーターを使えても心電図は読めない。」
牧野さんが手を止めて振り返り私は思わず息を呑んだ。
「何を学んできたって?」

…図星だった。
いかに多くの業務をこなせるかが、1年目に求められた。深くアセスメントすることや、病態を理解することは必要とされなかった。分からないことを相談でき、一度聞いたことは二度聞かない。なぜそうするのかは重要ではなかった。医師によって変わる指示の特性を理解し、それを遂行できる能力が評価された。それが3Eの新人の育て方だった。
「でも、それももう忘れちゃいました。しょせん1年しか働いてないですしね。」
正直、看護師としての自分の成長は今回の異動でリセットされ落ちこぼれていくような気がしていた。同期が夜勤デビューして次々と一人前にシフトをこなしていく姿を見ながら、自分のしていることは新しい業務をまた一から教わっているのだから。

救急搬送がないときは、私たち救命センターの看護師は外来の処置や検査を手伝うのが日課だった。いつ入るか分からない救急コールに人手を余すよりは、よりよい患者サービスに充当するのが病院の方針だ。私たちは多種多様な業務に精通しなければならなかった。
一般外来患者の採血、点滴、検査、処置だけでも、病棟で培われなかった多くの知識と技術が求められた。しかし、それらすべてを習得しておばちゃんの頂点に立ったとて、侵襲性の高い術後患者を看ている同期より優れた看護師になれるとは到底思えないことばかりだった。そのうえ外来患者は気心の知れた入院患者ほど初対面の若い看護師に寛大ではなく、何にしろミスは許されなかった。だから何を学ぶにも一人立ちするまでに時間がかかる。この3ヶ月で私ができるようになったことといえば、とにかく膨大な量の採血と点滴をこなしたために血管確保の技術が飛躍的に上達した程度だった。
自分の不甲斐なさにため息をついたとき、牧野さんのポケットのPHSが鳴った。
「はい。」
救急でないことは分かっていた。外線か内線か着信音で区別されている。私は、話が途切れそうなことを察知して別の作業に移ろうとした。
「三嶋、ストレッチャー。受付で痙攣してるって。」
牧野さんはすでにカートから物品と薬剤を握って走り出している。採血で倒れる患者や検査で気分不良になる患者、外来フロアで転んだり、院内の急変対応にも私たちは呼ばれる。そして時には外来で急変することもある。
「通してください!」
心臓がドキドキしてアドレナリンがどっと出ているのを感じる。こういうとき、自分が凄い人と一緒にいることを再確認する。
「ストレッチャーに乗せてこのままCTへ行く。」
「ええ?止めなくていいんですか?」
「三嶋は救急科の医者呼んで!…水口は私と来て。」
こういう場面で、自分が何もできないことも思い知らされる。二年目の私にとって、偉大な先輩の後ろ姿にはまだ憧れすら抱けないほどの距離があった。何をどうすればそうなれるのか、頭の中で想像もできないのだから無理もなかった。

救命救急センターの顔ともいえる救急外来の看護師には、期待に見合う評価と成果という重圧がかけられる。常に正確であること、スペシャリストでありジェネラリストであること。時に医師と対等に命を救うために戦い、また時に病院のコマとして雑用をこなさなければならなかった。そしてフリーランスであるがゆえに、すべてに結果を求められる。
しかし、そのことに私が気づくのはもう少し先の話。一年後に牧野さんが異動し、次にファーストコールを握った水口さんが産休に入り、若干四年目の私がそれを引き継いだとき、私は院内で一番顔を知られた四年目だったと今も自負している。