午後、病院から一旦家に帰り、お風呂に入ってからホールへ向かった。

練習室のドアをノックして入る。午後はステージ練習を行うことになっている。誰もいない所を見ると、皆はそっちへ行ってるらしい。


フルートを出して組み立てる。練習に参加する前の十分な音出し。昨日までの気負いは何処かへ行って、すっかり気分が軽くなってる。

(今ならいい演奏できそう…)


一人だけで『朝の気分』を吹いてみる。譜面も見ずにゆっくりと吹き出す。三年間、何度も吹き続けてきたから、最初の方は、楽譜を見なくても覚えてる。


奏でるメロディーの中に思い浮かぶのは、今朝のワンシーン…光の中、微睡むあの人の姿を見つけた。

前髪で隠れる横顔。柔らかな髪。整った眉。手の中にある温もり。何もかもが代え難い存在だと思った。
この人のことを…ずっと好きでいたいと思ったーーー。

(伝えたい…音で…感謝を…気持ちを…。語りたい…貴方のことが…どんなに好きか………)

朝日のように清々しい気分。ずっと…こうしていたいくらい、幸せだった…。

(そうか…朝の気分って…今みたいに幸せを感じることなんだ…)

吹きながらそう気づいた。私は今まで、そんな事も考えずに吹いていた……。


息を吹き出すのを止め、窓の外を見る。目の前のプラタナスの木が芽吹こうとしている。新しい季節の訪れを知る…。

(私も…始めなきゃ…)

楽譜の入ったファイルとフルートを手に持つ。ステージに移動しようと思い、ドアノブに手をかけた瞬間、動いた。

(えっ…⁉︎)

引っ張られるようにドアが開く。外にいた人とぶつかった。

「…ごめんなさ…!」

顔を上げる。バッチリ目が合った。

「…やっぱり!来てたんだね。そろそろ来る頃かと思って迎えに来たんだ」
「坂本さん…?」
「さっきお母さんから電話が入って。娘が向かいましたのでよろしく…と言われてね」
「お母さんが⁉︎ 」

驚く私に笑いかける。昨夜、付き添いを任せてもらった時に、電話番号を教え合ったそうだ。

「何かあったら連絡しないといけないだろ?」
「はぁ…そうですけど…」

なんだか釈然としない。娘の私ですら、彼の電話番号も知らないのに…。

(…お母さん、ズルい。そんなの一言も言わなかった…)

母親にシットする。浮かない表情でいたら、顔を覗き込まれた。

「…どうかした?」

背を屈めて聞く。

「え⁉︎…いえっ、何も…」

強がって話さずにいる。首を傾げながらもドアを閉め、歩き始める人の後を追う。
ステージに続く長い廊下。まるで、病室と同じように殺風景で何もない。
だけど、幸せだと思う……。