ゆっくりとバスが停まる。

 それと同時に眠りから目を覚ました車内は、降りようとする乗客で一気に慌ただしくなった。
 終点だから乗り過ごすこともないし、何より、到着予定時刻よりもまだ少し早いのに…そう思いながらも、周囲の慌ただしい雰囲気は自分にも伝染していて、急ぎ手荷物のショルダーバッグを肩にかけてバスを降りる。ついさっきまで眠りの世界にいたのを無理やり引き戻したせいか、足元はおぼつかず、夢を見ているようでふわふわしていた。
 降りた先で、バスの運転手から下に積んだトランクを受け取る為の列に並ぶ。ひんやりとした朝の空気は予想以上に涼しく、肌寒さで、思わず体が震えた。

 ここでは、当たり前のことだった。

 夏でも朝は涼しい。時として、長袖を着たくなるほどに。十八年間ここで暮らしてきたのに、たった四ヶ月でそのことを忘れていた。昨日まで蒸し暑さで目を覚まし、無意識にクーラーのリモコンを押すのが日課で、この涼しさを懐かしがっていたというのに、だ。
 トランクを受け取り、他の乗客と同じように駅へと向かう。クーラーで乾燥気味の車内に長時間いたせいか、やけに喉が渇いている。目覚ましも兼ねてコーヒーでも買おうと、自販機を探す。
 ここから駅の途中に自販機ってあったっけと考えながら歩いていると、ふいに、コーヒーの微かな香りが鼻を掠めた。どこからだろうと立ち止まってきょろきょろ辺りを見回して、それに気づく。

 Cafe Crossroad

 雑居ビルの前。腰ぐらいの高さのイーゼルに立てかけられた黒のボード。白い文字で、店名と営業時間だけが書かれている。

「…また、喫茶店なんだ」

 思わずそんな言葉が口をついた。
 以前も、ここは喫茶店だった。小さい頃、祖父に連れられて何度か来たことがある。常連だった祖父は、彼より少し若く見える初老のマスターと親しげに話をして、私はその間、祖父が買ってくれた本を読んでいた。
 だけど半年前、私が町を離れる前に、マスターの高齢を理由に喫茶店は閉店していた。中学生の時に祖父が亡くなって以来一度も入ったことがなかったから、空っぽの店内と閉店の挨拶が書かれた紙をたまたま通りがかった時に見て、びっくりした。ずっとその店はあるものだと訳もなく思っていたのだから。
 そんな、感傷的な記憶と結びついたこの場所に新しくできた喫茶店。どんな店内で、どんな人が働いているのだろうか。それが妙に気になった。

 早く家に帰りたい。だけど、もう少しだけ、この感傷的な気分に浸ってみよう。

 そんなことを思いながら、店の扉を開けた。