そのとき、

「小野寺くん!」

ふいに自分の名前を呼ばれて声のした方向に目を向けると

吉田克弥が立っていた。
白髪でグレーになっている髪は60歳過ぎの年齢にしては豊かに、そして真ん中からきちんと分けられ
スリムな長身と細い顔立ちにかかる縁なしの眼鏡には品を感じる。

小野寺が新入社員のときに研修でお世話になったひとだ。
その日の吉田は、当時、見慣れていたスーツ姿ではなく、ブルーのカジュアルなコートに赤と緑のチェックのマフラーが似合っている。
確か一昨年、会社を定年退職したと聞いていた。

「何やってんだ?こんな時間に、こんなところで?」
穏やかな表情をした吉田が小野寺にそう尋ねると

「あ!いや、なんでもないです。今月から西東京支店に転属になったんですが、なかなか慣れなくて…」

「誰でも転勤したばかりのときは慣れなくて苦労するよ。あまり気にするな」
このひとは研修中も優しい人柄から新入社員皆の相談相手になってくれていた。

「吉田さんは定年を迎えられて退職なさったと聞いてましたが…」

「ああ、会社は辞めたよ」

「ご自宅はこの近くだったんですか?」

「いや。そういうわけでもないんだが…
そうだ、もし君が良ければだが、その辺で少し飲んでから帰ろうか?」

「はい!」
東京に来てから、なんとなく孤独を感じていた小野寺は吉田からの誘いが有難かった。