高校時代の思い出は、多分楽しい思い出で埋まる可能性が高い。自分には楽しい思い出はない。
と言い切れるほどないのだ。思い出すのは辛い高校生活の大半の、”あいつ”と過ごす時間。

誰かに言えば楽になる、誰かに伝えれば共有できる。そんな事を思っていたがなかなか勇気を踏み出せない自分に苛立ちを思えずには居られない。




 その晩のテレビで、字自虐行為の特集をしていた。たまたま家には一人で、その番組を見入ってしまったのだが、その時はなにもかも考えずにただ見ているだけだった。しかし、終わった瞬間、今となればおかしな事だが、「こうすれば、楽になる。」と衝動に駆り立てられて、実行に移した。
誰も居ない家、行うのは風呂場。たとえ、血を流しても、流れるからだ。その血を見て、どうこうではない。その行為、自分を戒める行為が気を紛らわす事だと初めて分かった。癖になる事も、そして自分の快楽になる事も。




 頭の片隅ではいけない行為だという事はわかっていたに違いない。それでも、止められずには居られない事は、逃げのほか何ものでもない。そんな事は分かっている。それでも、止めれない事。これが、自虐行為の慢性化ではないかと、今は思える。

 何がよくていけないかなどは、半分自分の判断と、社会性の問題。
自分は社会に反しているとは思えない。たまたまかも知れないが、そういう心理的苦痛を経て、到達したのがそこであって、誰にも迷惑をかけていないし、誰も悲しませていない。それが、唯一の救いだったのかもしれない。